日本の大規模展覧会は、作品の権威づけが主目的の公募コンテスト形式が大半で、作品の売買が主目的のアートフェア形式はわずかです。そのため、作品を売ると決めた外国遠征展に、やや違和感も起きるでしょう。

多くが一瞬思うのは、たぶん次の点でしょう。「芸術は個人の感情の自由な発露である」「だから売るための妥協はよくない」「自分の作品は自分が信じるとおりで、角を丸められては困る」と。

実は逆です。日本の作品は角が丸すぎます。作者が思うほど、自由の発露でもなく。ホメオパシーふうに、透明で味が薄い作品が主流です。丸すぎる角をとがらせないと、現地で効きめがなかったりして。

強すぎる個性にドイツ人がおののかないよう、解毒して送り出したことは一度もありません。実は逆で、クリーンな健康作品をダーティーな不健康作品へと、近づける作業がむしろ必要なのです。作風に幅がある中から選ぶ時は、まずはその視点で探します。

公募コンテスト展では、ダーティーな不健康作品はそれが欠点とされ落選します。長年かけて日本の美術界では、汚れなき健康作品を求め合うクセがついています。刺激のない、よい子作品が幅をきかせるホーム。

対してアウェーの外国では、「芸術は個人の感情の自由な発露である」「だから陰気だったり、悪臭もある」の前提があります。ちょい悪以上が芸術だとするのが、他国のロジックです。これは、よい子アートが歴史に残っていない過去を学習した結果の改善策でしょう。
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|04-03|作家方針の工夫||TOP↑
ネットによくある質問は、「絵を売る方法を教えて欲しい」と単刀直入です。売り方は別にあるとして、先に知りたいのはこれでしょう。「売れる絵を制作するコツは何か」。

実はこちらへ初参加する方も、それを割と意識されます。文化交流の面で参加する意義や、見ていただけるという次に、できれば売れて欲しいのは当然でしょう。そして実際に、外国の美術展はむしろ売買を文化交流と呼ぶようなものです。相手は買うのが楽しみ。

どう作ればドイツで売れ、どんなふうだとだめか。何をどういじれば可能性が開けるかは、すでにある程度つかめています。むろん相手あっての確率だから、偶然の出会いも要素となる不確実性の中にありますが。

ところが、「日本国内で売れる制作のコツは?」と問われると困るのです。困る原因は、日本の鑑賞者の多くはモチーフ当てごっこに向かうから。しかも個人の価値観は希薄だという前提があり、誰に何を訴えるか目標を定めにくいのです。要は、能力主義社会ではない。

作品そのものをあまりよく見ない問題は、著書ブログで触れています。ドイツで売れやすそうなオリジナル絵画があるのですが、日本で批判一辺倒に巻き込まれた実例です。作品をよく見ないで、トークだけは羽ばたく傾向の国内事情がそこにもみられます。

そこで出された批判の動機はわかっています。絵が優れている証拠書類がないから、値打ちがないとみなしテキトーに叩けと。優れものを裏づける連帯保証人が不在だから、足元を見ろと。日本で売れる決め手のひとつは作者のルックスですが、そこでは顔写真は出していなかった。
|03-27|作家方針の工夫||TOP↑
外国の美術展覧会は日本と違い、役所内ギャラリーでさえ作品に値段をつけて売ります。自信満々で売れなかった美術家は、自信喪失したり、くさったり、あるいは責任を外に求めるなど、心理動揺するかも知れません。

中には、自分がいかにゴッホに近いかを実証するために、売れない連続記録を暗に期待する画家もいるかも。いつかはギネスにのってやると。アート作品の売れる売れないは、ゲーム感覚みたいな面もあります。性格占いもできそうな。

しかし連ちゃんだと気づきますが、売却は時の運が大きくて、団体展では「自分の時間」みたいなものも生じます。売れたから今後は類似作に傾いたり、売れなかった作風を放棄したりだと、偶然性にペースを狂わされるでしょう。ベテラン美術家はその分析と駆け引きがうまい。

美術大学では、作品を売る哲学は教えていないはず。売れた時や売れなかった時に、どう対処すべきかが一般論になっていないものです。ここが大事なのは、他の商品と違って芸術は否定的に存在できること。

新しい作風を、世界初でつくるから創造と呼ぶのであって。だから外的にマンネリを起こさず、内的にマンネリを起こす難しい作業になります。そんな作品は第三者から見れば、何かが変で異様で異端だったり。理解が遅れるのが芸術の取りえです。

ドイツでの日本美術展もこの基本は変わらず、売れずの作品をもっと売れにくい方向に徹底する作戦もあります。なかなかブレイクしないタイプに、大きい期待をかける正義の理屈がちゃんとあるのです。
|02-05|作家方針の工夫||TOP↑
完結した作品が必要です。出品用の作品を探して断念した例に、タブロー不在が少なからずあります。一枚の作品として完結しておらず、かきさしのスケッチ画をためているだけとか。

「自分は絵をかいていて、あれもこれも色々やってみたい」系のブログに見かけますが、断片スケッチの紙があるとして、並べると迫力も出るでしょう。でも一枚単位だと物足りないのです。弁当をつくる時に、おかずのつくりさしが一個ずつ入った弁当箱なら、何箱もあるみたいな。

売る時は一箱ずつだから、そのままでは腹につもらず市場に出せません。部分的におかずを上手につくれても、市場に出すにはもう何歩か進めて、箱を満たす必要があります。売れる弁当をつくるために充実が必要。

ただそこで、「自由が大事だ」「売る目的はよくない」「商業主義は敵だ」の抵抗感が生じやすいのが芸術です。コマーシャリズムの作為を排除したい思い。しかもそれは日本特有の心情です。世界ではあまり一般的でない、普遍性のない特殊な思いです。

商業と芸術は相関しないのに、反比例する関係でもあるかにとらえやすい日本では、美術家が実力発揮しにくい面があります。「モナリザ」「夜警」「浮世絵」など、商売目的だった絵を過剰に信仰し崇拝した空気が、国ぐるみ隠れハンデになっている疑い。

「現代は何でも自由だから」をまんま認めるなら、むしろ売るに徹するのも自由だし、聖俗反転も自由で、教条の余地こそがなくなる道理です。現にアメリカ産の商用版画は年月経て、日本で「現代の大物画家を三人あげよ」で真っ先に名前が出ます。この矛盾した商業観念にならう必要なし。
|12-21|作家方針の工夫||TOP↑
今年の新人は、申し込み前の検討時に出品を断念したケースが多かったようです。ここでは不合格はないから、最初に出品向けの作品を探すわけですが、途中で準備不足を感じたのかも知れません。制作の上手下手の次元ではなくて。

出品に向くかは、当初の企画では不問でした。当落と無関係な市場参加だから。ところがドイツ側のお客は、日本のように何でもありではなかったのです。作品が至らない時は、現地客ははっきり指摘したそうな。現地情況を伝えられて、内容がショボいとまずいと知ったのです。

日本の展覧会は全く違う考え方ですね。鑑賞無料だから、出品する側の美術家が望むとおりの作品を気が済むよう展示するものだと。作る側の自由であり権利だというのが、日本のアートイベントにみられる心得でしょう。

しかしアートが一般化し、市民一人一人が審査権を持つヨーロッパは違います。無料見物であれお客たちの時間を消費しているのだから、引き換えに得るものが必要なのだと。この得るものとは、目の保養だとか心の糧となる体験などではなく、作品の実物だったのです。

現地客は作品を買いに来ます。自身の家の壁やコレクションに加えるために、日本の新作美術展にも足を運んでくれます。裕福なコレクターは、内容しだいで高くても買う。当然ながらこちらも応じます。売り物のつもりで作っていない実験作品や奇抜作品も、何とか相手が買い取れる範囲に入れて送り出します。

ところが日本では、「芸術は自由なはず」「自分を曲げるべきでない」「ゴミが何億円にもなる時代だし」の何でもありが低い方に広がり、相手の存在が消えているのです。「別に売れなくてもよいさ」の割り切りが、芸術度の低下に直結する隠れ法則さえ読めてきました。ちなみに、ジャパン・フェスティバルなどフェア会場は全て入場有料で、前売り券も発売中。
|12-17|作家方針の工夫||TOP↑
ドイツ遠征に抽象絵画の参加が減っています。原因は国内で減っているからで、買う空気がない不景気で意気も落ちやすように感じます。我こそはという抽象画があれば、ドイツに向けて送り出しましょう。

「最近は抽象画に抵抗がない人が増えたね」なんて意見はみられません。何でもありのネットでも、「全然わからん」「意味不明」「きれいでもない」「いらね」の意見が圧倒的です。局地的に売れるゾーンはあっても、理解が広がっている様子は国内にみられません。

たとえば先日の、五千万円の絵を盗んで有罪になったニュース。元は駅の壁にあったあのアクションペインティングの純粋抽象を見て、金額に合った内容なのかの議論は起きず、難しくて僕は全然わからないと言う感想ばかり。何よりも反響の小ささ。

こうした抽象へのマイナス評価が寄せられてきた一因は、実は作品側にありました。抽象画はモチーフのおもしろさをウリにできず、見せ場づくりが難しい。その難しさに打ち勝った抽象画が少ない、往年の構造問題があります。高度ゆえ、傑作率が元々低いという宿命的なものです。

抽象画をいくら切り回しても、腹ペコの人にジュースを出すような、的へ当たりにくい面があります。世界中で多様な作風が出そろうにつれ、抽象画の新作が他人と趣味が一致する確率は下がっているのでしょう。そこは、モチーフできずなをつくれる具象画が有利。

そこで、いっそチーム化して作ろうではないかと考えました。こちらが買う身になり、作品に足りないものが何なのか調べる。徐々にそうした解決法が増えているところです。独りでやりたいように作っても一向に夜が明けない理由は、別に謎ではないのだから。
|11-23|作家方針の工夫||TOP↑
入社試験の面接では、しっかりした信念とやる気をアピールした学生が、優れた人材と認められる傾向があります。わが社を目指す動機は何かとたずねた時、整理された明快な答がはきはきと返ると、面接官も感心して一押しであろうと。

しかしその常識的な見方が無意味、あるいは現実はそうならない例が、ある業界から示されました。ネット投稿サイトで活躍している葬儀社の、社長による内情報告です。しっかりした信念を胸に抱いて、やる気に燃えていた学生は、入社してから仕事が続かずやめていくという。

よくある信念は、「みんなの役に立ちたい」「社会貢献したい」という高い志です。葬式を取り持つ重要さへの尊い気持ちと、冠婚葬祭の伝統を守っていきたいという立派な見識。そうした学生は、早い時点で転職するらしい。同業他社へ移るのではなく、職種を替えて業界を去って。

何となく食っていくために、仕方なしに葬儀の仕事でいいやという学生が、長続きするという。入社後もその調子かと思ったら、それも逆で。かえって仕事の本質が板について、ベテラン化する法則らしい。

かっこいいことを言うと化けの皮がはがれるとか、最初から軽い気持ちだと壁に当たらないなど、脳の作用もあるのかも知れません。しかし大事なのは、世の業務は食っていくために仕方なく存在する二重性が最初からある点です。絶対に欠かせない聖職も同じ。企業理念も後づけだし。

美術でも、可能性を夢みる人を見かけます。しかし事前のやる気と高い志が作品に結晶したためしがなく、早めに撤退してしまう法則を感じていました。大儀なしに作る方が、挫折は起きにくいのかも。
|11-13|作家方針の工夫||TOP↑
アート・マネージメント・システムでアーティストのコンセプト整理に当たるうち、スピリチュアリズムに話が行くことがあります。思考より哲学より、まだ奥のもの。並行して、個人サイト用の増補出版草稿も進めており、これがなぜか東日本大震災の幽霊関連テーマです。

東日本大震災は世界にツナミとゲンパツの衝撃を起こし、ドイツでは政策が急きょ180度変わったほど。ただ副産物として、「今の日本はどういう国か」「日本に特別なものが多い」「旅行して最高だった」「僕も日本を知りたい」という世界的反応も起きました。

2016年から、東日本大震災の現場に出る幽霊の話題がネットに増えました。大学の研究が発端ですが、どれも霊体存在論には向かわない様子。太古以来の慰霊方向へと収束し、興味本位の不謹慎との指摘もあったものの、割り切らないグレーなとらえ方に理解ある日本人が多い。

災害現場の怪現象は、かつての民放テレビならこうかも。「不思議な体験が続く、犠牲者の霊が出没する夜、その時カメラは見た」。しかしこうした昭和の感覚は変容し、今はフォークロアの原型にむしろ忠実です。「今の日本はどういう国か」が表明されている感じ。

はっきり感じ取ることと、存在することはイコールでなく、空白があります。そのすき間で、もめるひとつが芸術です。上手なデッサンや鮮やかな色とは違う、説明困難な次元に芸術性が宿るから。

日本の画家は花鳥風月を基本形として、社会問題を後回しや婉曲にとどめる作り方が多いようです。そこには、かえって原始的なスピリチュアリズムが入りやすいのでしょう。ただそれを絵に表すのに、慰霊方向に落ち着きながらも、「その時カメラは見た」の衝撃も欲しいのですが。
|09-18|作家方針の工夫||TOP↑
時々ある質問で、「自分の作品は、そちらの指向に合わないと思いますが」という前置きが届きます。その合わない作品というのを見ると、互いの共通性がなかったりします。色々と多様。たぶん気持ちの萎縮でしょう。

日本ではデフレ不況が長く続き、たとえば今の30歳は、小学校に入ると不況が始まりました。不況の時代は、普段から何かとギスギスした暮らしの空気になるものです。重箱の隅をつつくような否定的気分に影響されて。

たとえば、今の国内求人はバブルを超えた好景気とアナウンスされ、むろんデマです。バブル時代には猫の手も借りる事態でした。「手があいた男がいるって?、いや女か、何でもいいから連れて来て」という調子。その場で採用。やがて社員化。

今は違います。求人で不採用だった声の山。足りないのは猫の手でなく、超人の手だという。該当者がいるのか疑わしい、条件つき求人のラッシュ。昔流行ったコンピューター結婚システムが、有名大卒、年収2000万、身長180センチ以上を求めたのと似た、超買い手市場の人探しブーム。

国内のこのシビアな渋い求人の空気は、求美術でも起きるでしょう。作る側が、条件クリアの義務を多く負っている気分の蔓延。しかしお客のドイツ側では求日本美術状態が続いていて、特に難しいハードルもありません。あらゆる作風を買う気運が、現地にあります。割とゆるい。

ここで募集する作品にも、指向性はないのです。ただ、芸術性が低いメリットはないという普遍性はあります。どんな料理でもよいとして、味がしないと誰にとってもまずいから、味付けする用意はあります。世界の作品が集まる話とは別に。
|08-31|作家方針の工夫||TOP↑
初参加で出品作が完売するつもりでいても、実際は希望どおりにならないのが普通です。おそらくSNSで国内からの「いいね」評価が多かったから、その作品を流通量が多いヨーロッパへ持って行けば、ほぼ確実に売れるという読みなのでしょう。

しかし日本とドイツの美意識の違い以前に、美術が特殊化している国と、一般化している国の違いがあります。尺度をどこに置くかで、見る価値に置く日本と、買う価値に置くドイツの差です。

日本での作品評価は見る価値に寄りがちですが、ドイツだと買う価値になるから本気度が違います。想像ですが、日本では「拍手するけれど買おうとは思わない」が多く、その分甘い評価になりやすいと推測できます。見るだけならタダだから、何とでも感じて、何とでも言えるという。

見る価値の採点よりは、買う価値の採点の方が真剣なはず。この差はまんま、売らない公募コンテスト方式と、売るアートフェア方式の違いに一致します。だから海外遠征では、公募コンテスト感覚からアートフェア感覚へ切り換えることでうまくいくでしょう。

しかも海外遠征だと、相手は全く知らない人だから、共感仲間の「いいね」はありません。結果的に参加者は、何かを変えつつ方法を修正しながら、やりたいことを固め直す作業にすぐに入ります。「芸術は自由に伸び伸びやるものさ」の信念だけでは、相手がついて来ない確率は上がるから。

世間一般の募集展なら、全て自己責任でやってください式のプライベート領域に終始します。がここでは、傾向と対策はある程度わかっているから、それを使って効率化を図る手だても用意しています。
|08-22|作家方針の工夫||TOP↑
最近新しいパイロット企画をスタートさせました。これまでのマネージ・アンド・プロデュースそのままの、アーティスト売り込み契約です。簡単にいえば、音楽プロデュースと近似した作業で、アーティストの作品強化を図って売り出すものです。売らないと一円にもならない企画。

ドイツの人たちが日本から来た美術を見る目は、毎年進化しています。日本からのアート作品が集まり始めた当初は、知られざる日本現代美術への好奇心が先行しました。「何だ、何だ?」と見て確かめたかった。

しかし現代アートの一般化を済ませているヨーロッパとあれば、作品を買う話にすぐなります。コレクターアイテムの価値に着眼が移り選別が進む中、買えない作品は隅に置かれ始めました。当然こちらの企画も、参加者との作戦打ち合わせが増えています。出したいものを出すだけでは遅い。

買えない作品の代表は、サイズにくらべて高額なものです。さらに、買う視点に立つとアイデアのおもしろさでは足りず、ある種の完成度が決め手になります。100点満点で88点の作品だと称賛されど買われないのは、各国のアートが豊富に集まっている地だからです。

88点を96点に上げるプラス8点の増強を図る、アート・マネージメント・システムを考えました。作者の理念やコンセプトを整理し、作風を補強して、原案も出すなどしてボーダーラインを超え、作家ブランドを確立させます。

この方法の動機は、音楽では何人もが協力し合って互いを伸ばすのに、美術にはそれが全くない差でした。作者が歳をとっても、広がりが出ない。音楽には95点の曲が多いのに、美術では79点あたりの低迷が多い。ひとりで走って発案し、作詞、作曲、伴奏、歌唱しても限界がある人間の特性をみて、美術でも同様の協業システムをつくろうというわけです。
|06-24|作家方針の工夫||TOP↑
とりあえずお試しで出品する初回から、作品決めの段で「こうした方がよいかも知れません」と、私案を加えておくことも増えました。大半は、作風の彼岸となる完成度を高めようという方向です。

いうなれば芸術度を高める方向ですが、それが商業主義とぶつかるような混濁はなかったようです。映画にたとえれば、社会問題を告発するシリアス路線を、ファミリー向け娯楽作品へとまとめ直すようなことは、やはり不要なのです。

というのは、美術は一点売れば一応は済むし、映画のように万人向けの集客力による興行成績の競争は不要で、最大公約数的なカバーは考えません。芸術性を下げて商業性を高めるという、妥協的な引き換えの発想はいらない理屈です。ポピュラリティーを加える量が小さくてよい。

参加希望者の作品は、もっと商業方向へ引っ張っても創造性は損ねないと考えています。言い替えれば、独り合点のマイナス面を持つ作品が、国内に多いということかも知れません。そのマイナス面は、ほとんどの場合で何かの不足です。過剰ではなく不足の方。

不足しやすいのは簡単に言えば見せ場で、音楽で言うサビの盛り上がりが抜けている作品が多いように感じます。これは国内の空気のごとき忖度を受け、目立たない地味な方向へ引っ張られるからではないかと。

「その絵はだめでこっちがよい」と日本で誰かが偉そうに言う場合、必ず主張が薄い作品が推奨されます。濃い作品をすすめるケースは皆無といえるほど。薄味にする説教がまた始まったかと。こうした間違った意向によって欠けた何かを、逆の価値観の外国向けに修整することが増えます。
|05-14|作家方針の工夫||TOP↑
日本で具象美術よりも抽象美術が冷遇以上に嫌われるのは、過去に業界で続いた内戦とヘイトの結果も大きいと仮説を立てています。これは日本人の資質や素養として、根っから抽象が苦手な根拠が特にない証拠立てにもなりますが。

そしてこの問題の上位にあるのは、世界的な傾向として具象より抽象の方が数が出にくいこと。限られた客層で、選ばれた人のみ抽象を買い求める国際的な実態もまた、厳然とあるのです。人類はまんべんなくオールラウンドでもなく、全般に抽象が苦手になっているのも事実で。

画家にすれば、具象画で挑戦するか抽象画で挑戦するかで、課題が異なります。日本作品のドイツ展示に限定しても、具象の目標をグローバリズム画風よりローカリズム画風に帰結させやすく、何をすべきかは平易でなくともハウツーは方向づけやすい。

それに対して抽象画では、日本らしさ以前の壁として、ユニークなビジュアル図案へと詰める苦労が大きいのです。何かを写して似せるという、実写の共感を捨てたのが抽象画だから。抽象はマイナスからの出発。

具象画ほどは売れにくい抽象画を、新たにパワーアップする作戦で、今は実は改良の余地をより大きく感じています。抽象画の方が足りない何かを見つけやすく、具象より向上の幅も大きいから。

モデルの魅力が七難を隠してくれる利が抽象画にはないから、定石を壊して特異性を加えないと、他人の感興を誘わない。佳作の抽象では、佳作の具象より見過ごされるハンデを計算に入れる必要があるでしょう。
|04-19|作家方針の工夫||TOP↑
経済の話題が、ここで多くなっています。芸術文化は経済力が支えるからで、逸品は好景気で出やすい傾向もあるらしく。見て買う側の財力もそうですが、作者が制作に時間をさけない限り、創造のイコンは生まれない理屈です。貧困社会の芸術は貧困。

日本ではまず誰もやらないこと、アート関連サイト訪問をやってきました。その昔、CG画ショップでデジタル作家に参加してもらう目的でした。そしてやはりはっきりした時代変化は、2005年にはまだ多かったアート紹介総合サイトが、以後は消える一方だったこと。

さらに2012年あたりから、今度は美術家サイトやイラストレーターブログなどが次々と消えました。その後はリンク切れどころか運営もやめて、活動休止や撤退したケースが多いのです。要するに、不況によって美術家が減っています。

どういうタイプだったかといえば、「絵が好きで、色々描きますのでよろしく」というのが多かったような。「自分もそのタイプだけど、もっと確かな理念もあります」という方なら、そうはならない違うタイプかも知れません。

おそらく、好きで上手なだけにとどまらない、独自の目標や使命感でもない限り、美術は持続しないのでしょう。関わって得るものが乏しいと迷い出すのでしょう。生活必需品でなく、資格のいらない自由参入だし。

しかし実際に家計の問題で活動中止や撤退するケースを知ると、市場問題も考えます。売買がそこそこ盛んな市場がないと、どうにもならない気がします。美術祭に参加してわいわいやる盛り上がりよりも、日常的な売買の雰囲気がまず必要でしょう。ドイツにあっても、日本にないから。
|03-02|作家方針の工夫||TOP↑
海外の美術展に一度チャレンジして、特に評価もなくそれきりあきらめた方は、おそらく日本中に少なくないのではと思います。そんな一方で、作品を改良しながら徐々に評価を上げているケースもあります。

これも一種の人生問題でしょうか。よくあることで、テレビなどに突然現れ脚光をあびて話題の、時の人。うまい芸の思いつきがポンと当たったスピード出世かと思ったら、15年も前から同じことを延々と続けていたとか。

美術も石の上に三年だと足りず、急ピッチでも5年単位が現実です。その行動を追い越すかのように、こよみの年月がスタコラ走っている感覚です。ためらって立ち止まると、空白ばかりが増えてしまって。年輩になるほど、「ついこの前」が7年前だったりする現象と似て。

企画の中では、連続参加による制作の堂々巡りが減るよう、合理的な打つ手をともに考えることが増えています。展示会で売れなかった時、一人で考えても次の一手を決めにくく、しかし止まると復活できないことも多いし。こういうものは、不発の後のリカバーが意外に大事なのかも知れません。

ただしやるべきことは、全方位に広がっているわけではありません。つまり、日本では根本的に「濃い世界観」を敬遠する傾向があり、通俗的にいえば個性嫌いです。日本に暮らすと刷り込まれています。その部分を伸ばす作業が、作品改良の中心となっています。
|01-25|作家方針の工夫||TOP↑
美術と音楽を時々くらべていますが、音楽家で目立つのはイベント回数の多さです。多少でもファンがいるからコンサートが開けるのも確かですが、年間150日ステージに立つのは多めとしても、50日はざら。

アメリカのジャズ系の大物は、若い頃に一晩に二カ所というのもよくあり、日本の現代的クラシック系も国内を飛び回っています。全県を回るのもあるし。音楽では、表現者たちはせっせと布教活動を続けています。武道館だけでなく。それだけに、鍛錬の積み重ねも多大で。

一方、美術を年150日展示したり、10回という美術家もあまりいないのかも知れません。美術の露出度は全般に低く、この程度ではミュージシャンと同等の待遇が受けられないのは、やはり納得はできます。

アートフェア参加の初心者は、全作品が売れて即注目されるような、シンデレラストーリーを何となく思い描く瞬間があるでしょう。しかしリアルタイムの出世は、世界の美術館にある巨匠作品には起きなかったことです。『モナリザ』などは、当初はどうでもいい余技の絵だったし。

今から4日後に、ベルリンで展示会を行います。細かい準備(最後は駆け足でしたが)の成果を、皆で確かめます。しかし、各作家が得るものを大きくする策はあっても、一夜で人生をひっくり返すまでは行かない前提です。この分野で一発屋は困難でしょう。

とことん本気なら、同じ展示会が年に3回ぐらいあってよいのですが、日本にそんなイベントはないような気が。そう思ったら、ドイツには年に4回行うアートフェアがありました。4回やっても落ちない国民の関心と、4回できる資金が前提でしょう。
|01-17|作家方針の工夫||TOP↑
今日2017年1月9日の成人の日は、いつもどおり二十歳が対象で、2016年に十八歳に下げた選挙権とは無関係です。

画学生や立体学生に何か言うなら、横の連帯のすすめでしょうか。昔から先輩は後輩にこの言い方をよくやるから、またかでしょうが。ムーブメントは一人では無理で、二人以上なら何とかなるから。

その点で、美術というジャンル自体に元から不利な構造があります。芸大の内情を書いた本でも、変わり者偏重がありました。変人のみ創造ができ芸術に届くという、最低条件みたいなものが学内で想定されているようで。アーティストが一人ずつ孤立するフラグです。

しかしその前提「変人説」の普遍性は疑わしいのです。日本は美術の一般化に失敗した珍しい先進国だという前提の方が、先にくるからです。日本に限り美術が特殊化して、一般の生活から遠く離れた位置にあり、当然ながら芸術家を取り立てて特殊扱いしたがる。そこを見落とせません。

精神病理や脳障害の線で芸術を解釈したがる一般人の思いに、くだけた美術エッセーが迎合的に応じている疑いです。現代アートに手を焼く国民感情への配慮でしょうが、そこには人類の感性が後世ほど下がっていく文明の運命を、計算に入れ忘れている問題があります。

ネットに精神病患者である芸術家が列挙されていますが、不思議な造形の作者が片っ端から並べてあって、要するについて行けない者が腹いせで書いています。理解できない自分は健常者に生まれてよかったと言いたげ。これは、ヒトラーの『退廃芸術展』と動機が同じです。
|01-09|作家方針の工夫||TOP↑
現代アーティストの悩みのひとつが、作風統一しにくいこと。原因はアートの多様化です。19世紀の画家は具象だけを手がけましたが、現代の画家は具象と抽象を並行して手がけたり、ラインナップすることも多いのです。

色々な作品が出尽くし、お手本が多岐に渡る時代なので、合計4種類とか、写真も入れて7種類など作品系統が多い画家が増えています。一貫した自分色でまとめ切れない、作風のデパート現象も起きるでしょう。

ひとつひとつの系統をかじるうちに時間切れで、スタイル確立半ばで放置とか。才が集中せず力点が分散するから、自己ベストや顔となる代表作になかなか結実しないとか。野球とサッカーを両方やるみたいで。

一人で作風がABCあって、別人のごとく共通の特徴がない場合が心配です。外国で毎年展示するとリピート客が多めだから、作風が毎度チャラになると固定ファン獲得に不利で。音楽と違い美術は、作者の同一性で記憶に残る面があるからです。

特別に手が器用だと、よけいにお試し作品を続けやすくもなり、こちらも「本命はこれとこれぐらいですね」と絞り込みたくなります。ところが「これでいきます」の決意があって、新たに考えたDタイプだと、何だかなーと。

現代作風の選択肢やお気に入りが多すぎて迷うことと、作風が一貫しないことは一応は別問題です。しかし、たとえば一人の水彩画とペン画が別人の作であるかに見える不統一は、目に入る既存作品に影響されたせいも大きく、こちらも話のタネにすることがあります。
|11-15|作家方針の工夫||TOP↑
日本と違って欧米では、素性のわからない一見さんの作品でも買い手が現れます。だから、外国遠征が初参加の画家が売れることも割とありました。作品の実物を見せているのだから、値打ちを測る材料は足りているわけで、相手は作品をよく見ています。

一方日本で展示を行うと、相手が見たいのは作品よりも値打ちを裏づける資料かと感じることがあります。世間でどういう評価なのかを知りたがるとか。作品実物は補足資料みたいで。日本では人々が自力で見ない前提ができていて、結果的に欧米の方が売買数も圧倒的に多いという。

それなら日本から欧米へ何でもどんどん送ればよさそうですが、日本の作品価格では高すぎます。オープン市場では、安い優れものを探そうとしてコスパ狙いが起きているからです。現地での相場は日本より常に低く、さらに値引き交渉も始まります。

それなら値段を変えて済むかといえば、内容もいじる必要がけっこうあるのです。国内では作品向上に、周囲があまり関心がなかったからです。優劣は評価情報に従うから、内容にシビアにならずに済んだ。買うわけじゃなし、美術家が何をやろうが割とどうでもよかった。買うものがないと文句を言うお客もいないし。

内容がさして注視されない環境で生まれた作品に、不足やスキが多いのは自然の成り行きです。なので海外進出するには、日本では二の次でも済んだ作品内容に、改めて本腰を入れることになります。
|07-13|作家方針の工夫||TOP↑
キャンバス画や木板の絵にくらべ、紙作品は経年で傷みやすい問題があります。日本の高温多湿が原因で、変色やカビにやられやすい。

スケッチではないタブローのペーパー、つまり最終作品が紙の水彩画やクレヨン、色鉛筆の場合が大問題です。久しぶりに出して見ると、傷んでいてがっかりすることが。絵を額に入れ、箱にしまい込んでいると特にひどい。

そこで作品が新しいうちに撮影すれば、画像イメージを永久的に保全できます。この五年ほどでデジタル一眼レフカメラが安く高画質になり、低コストにて可能になりました。

ただ撮影にはそれなりに手間もかかり、紙を平らにして写すにも工夫が必要で、大きめの絵では照明も手間です。撮影法を求めるうちに、部屋の一角が写真スタジオ同然になることも。機材にこり出したりして。

ところで、過去作品が今の関心と異なるとしても、新作が何もかも上回るとも限りません。初期の勢いや大胆な発想が、年月経て今ではもう出せないこともあるでしょう。起きやすいのは、人目を意識してきれいに仕上げる習慣が強まり、新作ほどこじんまり萎縮し空気になってしまうケースです。

世間の減点法評価への対策を講じていない初期の作品は、たとえ今よりはるかに未熟でも、まだ失っていない何かが輝いている場合があります。
|06-12|作家方針の工夫||TOP↑

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