アート・マネージメント・システムでアーティストのコンセプト整理に当たるうち、スピリチュアリズムに話が行くことがあります。思考より哲学より、まだ奥のもの。並行して、個人サイト用の増補出版草稿も進めており、これがなぜか東日本大震災の幽霊関連テーマです。

東日本大震災は世界にツナミとゲンパツの衝撃を起こし、ドイツでは政策が急きょ180度変わったほど。ただ副産物として、「今の日本はどういう国か」「日本に特別なものが多い」「旅行して最高だった」「僕も日本を知りたい」という世界的反応も起きました。

2016年から、東日本大震災の現場に出る幽霊の話題がネットに増えました。大学の研究が発端ですが、どれも霊体存在論には向かわない様子。太古以来の慰霊方向へと収束し、興味本位の不謹慎との指摘もあったものの、割り切らないグレーなとらえ方に理解ある日本人が多い。

災害現場の怪現象は、かつての民放テレビならこうかも。「不思議な体験が続く、犠牲者の霊が出没する夜、その時カメラは見た」。しかしこうした昭和の感覚は変容し、今はフォークロアの原型にむしろ忠実です。「今の日本はどういう国か」が表明されている感じ。

はっきり感じ取ることと、存在することはイコールでなく、空白があります。そのすき間で、もめるひとつが芸術です。上手なデッサンや鮮やかな色とは違う、説明困難な次元に芸術性が宿るから。

日本の画家は花鳥風月を基本形として、社会問題を後回しや婉曲にとどめる作り方が多いようです。そこには、かえって原始的なスピリチュアリズムが入りやすいのでしょう。ただそれを絵に表すのに、慰霊方向に落ち着きながらも、「その時カメラは見た」の衝撃も欲しいのですが。
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|09-18|作家方針の工夫||TOP↑
時々ある質問で、「自分の作品は、そちらの指向に合わないと思いますが」という前置きが届きます。その合わない作品というのを見ると、互いの共通性がなかったりします。色々と多様。たぶん気持ちの萎縮でしょう。

日本ではデフレ不況が長く続き、たとえば今の30歳は、小学校に入ると不況が始まりました。不況の時代は、普段から何かとギスギスした暮らしの空気になるものです。重箱の隅をつつくような否定的気分に影響されて。

たとえば、今の国内求人はバブルを超えた好景気とアナウンスされ、むろんデマです。バブル時代には猫の手も借りる事態でした。「手があいた男がいるって?、いや女か、何でもいいから連れて来て」という調子。その場で採用。やがて社員化。

今は違います。求人で不採用だった声の山。足りないのは猫の手でなく、超人の手だという。該当者がいるのか疑わしい、条件つき求人のラッシュ。昔流行ったコンピューター結婚システムが、有名大卒、年収2000万、身長180センチ以上を求めたのと似た、超買い手市場の人探しブーム。

国内のこのシビアな渋い求人の空気は、求美術でも起きるでしょう。作る側が、条件クリアの義務を多く負っている気分の蔓延。しかしお客のドイツ側では求日本美術状態が続いていて、特に難しいハードルもありません。あらゆる作風を買う気運が、現地にあります。割とゆるい。

ここで募集する作品にも、指向性はないのです。ただ、芸術性が低いメリットはないという普遍性はあります。どんな料理でもよいとして、味がしないと誰にとってもまずいから、味付けする用意はあります。世界の作品が集まる話とは別に。
|08-31|作家方針の工夫||TOP↑
初参加で出品作が完売するつもりでいても、実際は希望どおりにならないのが普通です。おそらくSNSで国内からの「いいね」評価が多かったから、その作品を流通量が多いヨーロッパへ持って行けば、ほぼ確実に売れるという読みなのでしょう。

しかし日本とドイツの美意識の違い以前に、美術が特殊化している国と、一般化している国の違いがあります。尺度をどこに置くかで、見る価値に置く日本と、買う価値に置くドイツの差です。

日本での作品評価は見る価値に寄りがちですが、ドイツだと買う価値になるから本気度が違います。想像ですが、日本では「拍手するけれど買おうとは思わない」が多く、その分甘い評価になりやすいと推測できます。見るだけならタダだから、何とでも感じて、何とでも言えるという。

見る価値の採点よりは、買う価値の採点の方が真剣なはず。この差はまんま、売らない公募コンテスト方式と、売るアートフェア方式の違いに一致します。だから海外遠征では、公募コンテスト感覚からアートフェア感覚へ切り換えることでうまくいくでしょう。

しかも海外遠征だと、相手は全く知らない人だから、共感仲間の「いいね」はありません。結果的に参加者は、何かを変えつつ方法を修正しながら、やりたいことを固め直す作業にすぐに入ります。「芸術は自由に伸び伸びやるものさ」の信念だけでは、相手がついて来ない確率は上がるから。

世間一般の募集展なら、全て自己責任でやってください式のプライベート領域に終始します。がここでは、傾向と対策はある程度わかっているから、それを使って効率化を図る手だても用意しています。
|08-22|作家方針の工夫||TOP↑
最近新しいパイロット企画をスタートさせました。これまでのマネージ・アンド・プロデュースそのままの、アーティスト売り込み契約です。簡単にいえば、音楽プロデュースと近似した作業で、アーティストの作品強化を図って売り出すものです。売らないと一円にもならない企画。

ドイツの人たちが日本から来た美術を見る目は、毎年進化しています。日本からのアート作品が集まり始めた当初は、知られざる日本現代美術への好奇心が先行しました。「何だ、何だ?」と見て確かめたかった。

しかし現代アートの一般化を済ませているヨーロッパとあれば、作品を買う話にすぐなります。コレクターアイテムの価値に着眼が移り選別が進む中、買えない作品は隅に置かれ始めました。当然こちらの企画も、参加者との作戦打ち合わせが増えています。出したいものを出すだけでは遅い。

買えない作品の代表は、サイズにくらべて高額なものです。さらに、買う視点に立つとアイデアのおもしろさでは足りず、ある種の完成度が決め手になります。100点満点で88点の作品だと称賛されど買われないのは、各国のアートが豊富に集まっている地だからです。

88点を96点に上げるプラス8点の増強を図る、アート・マネージメント・システムを考えました。作者の理念やコンセプトを整理し、作風を補強して、原案も出すなどしてボーダーラインを超え、作家ブランドを確立させます。

この方法の動機は、音楽では何人もが協力し合って互いを伸ばすのに、美術にはそれが全くない差でした。作者が歳をとっても、広がりが出ない。音楽には95点の曲が多いのに、美術では79点あたりの低迷が多い。ひとりで走って発案し、作詞、作曲、伴奏、歌唱しても限界がある人間の特性をみて、美術でも同様の協業システムをつくろうというわけです。
|06-24|作家方針の工夫||TOP↑
とりあえずお試しで出品する初回から、作品決めの段で「こうした方がよいかも知れません」と、私案を加えておくことも増えました。大半は、作風の彼岸となる完成度を高めようという方向です。

いうなれば芸術度を高める方向ですが、それが商業主義とぶつかるような混濁はなかったようです。映画にたとえれば、社会問題を告発するシリアス路線を、ファミリー向け娯楽作品へとまとめ直すようなことは、やはり不要なのです。

というのは、美術は一点売れば一応は済むし、映画のように万人向けの集客力による興行成績の競争は不要で、最大公約数的なカバーは考えません。芸術性を下げて商業性を高めるという、妥協的な引き換えの発想はいらない理屈です。ポピュラリティーを加える量が小さくてよい。

参加希望者の作品は、もっと商業方向へ引っ張っても創造性は損ねないと考えています。言い替えれば、独り合点のマイナス面を持つ作品が、国内に多いということかも知れません。そのマイナス面は、ほとんどの場合で何かの不足です。過剰ではなく不足の方。

不足しやすいのは簡単に言えば見せ場で、音楽で言うサビの盛り上がりが抜けている作品が多いように感じます。これは国内の空気のごとき忖度を受け、目立たない地味な方向へ引っ張られるからではないかと。

「その絵はだめでこっちがよい」と日本で誰かが偉そうに言う場合、必ず主張が薄い作品が推奨されます。濃い作品をすすめるケースは皆無といえるほど。薄味にする説教がまた始まったかと。こうした間違った意向によって欠けた何かを、逆の価値観の外国向けに修整することが増えます。
|05-14|作家方針の工夫||TOP↑
日本で具象美術よりも抽象美術が冷遇以上に嫌われるのは、過去に業界で続いた内戦とヘイトの結果も大きいと仮説を立てています。これは日本人の資質や素養として、根っから抽象が苦手な根拠が特にない証拠立てにもなりますが。

そしてこの問題の上位にあるのは、世界的な傾向として具象より抽象の方が数が出にくいこと。限られた客層で、選ばれた人のみ抽象を買い求める国際的な実態もまた、厳然とあるのです。人類はまんべんなくオールラウンドでもなく、全般に抽象が苦手になっているのも事実で。

画家にすれば、具象画で挑戦するか抽象画で挑戦するかで、課題が異なります。日本作品のドイツ展示に限定しても、具象の目標をグローバリズム画風よりローカリズム画風に帰結させやすく、何をすべきかは平易でなくともハウツーは方向づけやすい。

それに対して抽象画では、日本らしさ以前の壁として、ユニークなビジュアル図案へと詰める苦労が大きいのです。何かを写して似せるという、実写の共感を捨てたのが抽象画だから。抽象はマイナスからの出発。

具象画ほどは売れにくい抽象画を、新たにパワーアップする作戦で、今は実は改良の余地をより大きく感じています。抽象画の方が足りない何かを見つけやすく、具象より向上の幅も大きいから。

モデルの魅力が七難を隠してくれる利が抽象画にはないから、定石を壊して特異性を加えないと、他人の感興を誘わない。佳作の抽象では、佳作の具象より見過ごされるハンデを計算に入れる必要があるでしょう。
|04-19|作家方針の工夫||TOP↑
経済の話題が、ここで多くなっています。芸術文化は経済力が支えるからで、逸品は好景気で出やすい傾向もあるらしく。見て買う側の財力もそうですが、作者が制作に時間をさけない限り、創造のイコンは生まれない理屈です。貧困社会の芸術は貧困。

日本ではまず誰もやらないこと、アート関連サイト訪問をやってきました。その昔、CG画ショップでデジタル作家に参加してもらう目的でした。そしてやはりはっきりした時代変化は、2005年にはまだ多かったアート紹介総合サイトが、以後は消える一方だったこと。

さらに2012年あたりから、今度は美術家サイトやイラストレーターブログなどが次々と消えました。その後はリンク切れどころか運営もやめて、活動休止や撤退したケースが多いのです。要するに、不況によって美術家が減っています。

どういうタイプだったかといえば、「絵が好きで、色々描きますのでよろしく」というのが多かったような。「自分もそのタイプだけど、もっと確かな理念もあります」という方なら、そうはならない違うタイプかも知れません。

おそらく、好きで上手なだけにとどまらない、独自の目標や使命感でもない限り、美術は持続しないのでしょう。関わって得るものが乏しいと迷い出すのでしょう。生活必需品でなく、資格のいらない自由参入だし。

しかし実際に家計の問題で活動中止や撤退するケースを知ると、市場問題も考えます。売買がそこそこ盛んな市場がないと、どうにもならない気がします。美術祭に参加してわいわいやる盛り上がりよりも、日常的な売買の雰囲気がまず必要でしょう。ドイツにあっても、日本にないから。
|03-02|作家方針の工夫||TOP↑
海外の美術展に一度チャレンジして、特に評価もなくそれきりあきらめた方は、おそらく日本中に少なくないのではと思います。そんな一方で、作品を改良しながら徐々に評価を上げているケースもあります。

これも一種の人生問題でしょうか。よくあることで、テレビなどに突然現れ脚光をあびて話題の、時の人。うまい芸の思いつきがポンと当たったスピード出世かと思ったら、15年も前から同じことを延々と続けていたとか。

美術も石の上に三年だと足りず、急ピッチでも5年単位が現実です。その行動を追い越すかのように、こよみの年月がスタコラ走っている感覚です。ためらって立ち止まると、空白ばかりが増えてしまって。年輩になるほど、「ついこの前」が7年前だったりする現象と似て。

企画の中では、連続参加による制作の堂々巡りが減るよう、合理的な打つ手をともに考えることが増えています。展示会で売れなかった時、一人で考えても次の一手を決めにくく、しかし止まると復活できないことも多いし。こういうものは、不発の後のリカバーが意外に大事なのかも知れません。

ただしやるべきことは、全方位に広がっているわけではありません。つまり、日本では根本的に「濃い世界観」を敬遠する傾向があり、通俗的にいえば個性嫌いです。日本に暮らすと刷り込まれています。その部分を伸ばす作業が、作品改良の中心となっています。
|01-25|作家方針の工夫||TOP↑
美術と音楽を時々くらべていますが、音楽家で目立つのはイベント回数の多さです。多少でもファンがいるからコンサートが開けるのも確かですが、年間150日ステージに立つのは多めとしても、50日はざら。

アメリカのジャズ系の大物は、若い頃に一晩に二カ所というのもよくあり、日本の現代的クラシック系も国内を飛び回っています。全県を回るのもあるし。音楽では、表現者たちはせっせと布教活動を続けています。武道館だけでなく。それだけに、鍛錬の積み重ねも多大で。

一方、美術を年150日展示したり、10回という美術家もあまりいないのかも知れません。美術の露出度は全般に低く、この程度ではミュージシャンと同等の待遇が受けられないのは、やはり納得はできます。

アートフェア参加の初心者は、全作品が売れて即注目されるような、シンデレラストーリーを何となく思い描く瞬間があるでしょう。しかしリアルタイムの出世は、世界の美術館にある巨匠作品には起きなかったことです。『モナリザ』などは、当初はどうでもいい余技の絵だったし。

今から4日後に、ベルリンで展示会を行います。細かい準備(最後は駆け足でしたが)の成果を、皆で確かめます。しかし、各作家が得るものを大きくする策はあっても、一夜で人生をひっくり返すまでは行かない前提です。この分野で一発屋は困難でしょう。

とことん本気なら、同じ展示会が年に3回ぐらいあってよいのですが、日本にそんなイベントはないような気が。そう思ったら、ドイツには年に4回行うアートフェアがありました。4回やっても落ちない国民の関心と、4回できる資金が前提でしょう。
|01-17|作家方針の工夫||TOP↑
今日2017年1月9日の成人の日は、いつもどおり二十歳が対象で、2016年に十八歳に下げた選挙権とは無関係です。

画学生や立体学生に何か言うなら、横の連帯のすすめでしょうか。昔から先輩は後輩にこの言い方をよくやるから、またかでしょうが。ムーブメントは一人では無理で、二人以上なら何とかなるから。

その点で、美術というジャンル自体に元から不利な構造があります。芸大の内情を書いた本でも、変わり者偏重がありました。変人のみ創造ができ芸術に届くという、最低条件みたいなものが学内で想定されているようで。アーティストが一人ずつ孤立するフラグです。

しかしその前提「変人説」の普遍性は疑わしいのです。日本は美術の一般化に失敗した珍しい先進国だという前提の方が、先にくるからです。日本に限り美術が特殊化して、一般の生活から遠く離れた位置にあり、当然ながら芸術家を取り立てて特殊扱いしたがる。そこを見落とせません。

精神病理や脳障害の線で芸術を解釈したがる一般人の思いに、くだけた美術エッセーが迎合的に応じている疑いです。現代アートに手を焼く国民感情への配慮でしょうが、そこには人類の感性が後世ほど下がっていく文明の運命を、計算に入れ忘れている問題があります。

ネットに精神病患者である芸術家が列挙されていますが、不思議な造形の作者が片っ端から並べてあって、要するについて行けない者が腹いせで書いています。理解できない自分は健常者に生まれてよかったと言いたげ。これは、ヒトラーの『退廃芸術展』と動機が同じです。
|01-09|作家方針の工夫||TOP↑
現代アーティストの悩みのひとつが、作風統一しにくいこと。原因はアートの多様化です。19世紀の画家は具象だけを手がけましたが、現代の画家は具象と抽象を並行して手がけたり、ラインナップすることも多いのです。

色々な作品が出尽くし、お手本が多岐に渡る時代なので、合計4種類とか、写真も入れて7種類など作品系統が多い画家が増えています。一貫した自分色でまとめ切れない、作風のデパート現象も起きるでしょう。

ひとつひとつの系統をかじるうちに時間切れで、スタイル確立半ばで放置とか。才が集中せず力点が分散するから、自己ベストや顔となる代表作になかなか結実しないとか。野球とサッカーを両方やるみたいで。

一人で作風がABCあって、別人のごとく共通の特徴がない場合が心配です。外国で毎年展示するとリピート客が多めだから、作風が毎度チャラになると固定ファン獲得に不利で。音楽と違い美術は、作者の同一性で記憶に残る面があるからです。

特別に手が器用だと、よけいにお試し作品を続けやすくもなり、こちらも「本命はこれとこれぐらいですね」と絞り込みたくなります。ところが「これでいきます」の決意があって、新たに考えたDタイプだと、何だかなーと。

現代作風の選択肢やお気に入りが多すぎて迷うことと、作風が一貫しないことは一応は別問題です。しかし、たとえば一人の水彩画とペン画が別人の作であるかに見える不統一は、目に入る既存作品に影響されたせいも大きく、こちらも話のタネにすることがあります。
|11-15|作家方針の工夫||TOP↑
日本と違って欧米では、素性のわからない一見さんの作品でも買い手が現れます。だから、外国遠征が初参加の画家が売れることも割とありました。作品の実物を見せているのだから、値打ちを測る材料は足りているわけで、相手は作品をよく見ています。

一方日本で展示を行うと、相手が見たいのは作品よりも値打ちを裏づける資料かと感じることがあります。世間でどういう評価なのかを知りたがるとか。作品実物は補足資料みたいで。日本では人々が自力で見ない前提ができていて、結果的に欧米の方が売買数も圧倒的に多いという。

それなら日本から欧米へ何でもどんどん送ればよさそうですが、日本の作品価格では高すぎます。オープン市場では、安い優れものを探そうとしてコスパ狙いが起きているからです。現地での相場は日本より常に低く、さらに値引き交渉も始まります。

それなら値段を変えて済むかといえば、内容もいじる必要がけっこうあるのです。国内では作品向上に、周囲があまり関心がなかったからです。優劣は評価情報に従うから、内容にシビアにならずに済んだ。買うわけじゃなし、美術家が何をやろうが割とどうでもよかった。買うものがないと文句を言うお客もいないし。

内容がさして注視されない環境で生まれた作品に、不足やスキが多いのは自然の成り行きです。なので海外進出するには、日本では二の次でも済んだ作品内容に、改めて本腰を入れることになります。
|07-13|作家方針の工夫||TOP↑
キャンバス画や木板の絵にくらべ、紙作品は経年で傷みやすい問題があります。日本の高温多湿が原因で、変色やカビにやられやすい。

スケッチではないタブローのペーパー、つまり最終作品が紙の水彩画やクレヨン、色鉛筆の場合が大問題です。久しぶりに出して見ると、傷んでいてがっかりすることが。絵を額に入れ、箱にしまい込んでいると特にひどい。

そこで作品が新しいうちに撮影すれば、画像イメージを永久的に保全できます。この五年ほどでデジタル一眼レフカメラが安く高画質になり、低コストにて可能になりました。

ただ撮影にはそれなりに手間もかかり、紙を平らにして写すにも工夫が必要で、大きめの絵では照明も手間です。撮影法を求めるうちに、部屋の一角が写真スタジオ同然になることも。機材にこり出したりして。

ところで、過去作品が今の関心と異なるとしても、新作が何もかも上回るとも限りません。初期の勢いや大胆な発想が、年月経て今ではもう出せないこともあるでしょう。起きやすいのは、人目を意識してきれいに仕上げる習慣が強まり、新作ほどこじんまり萎縮し空気になってしまうケースです。

世間の減点法評価への対策を講じていない初期の作品は、たとえ今よりはるかに未熟でも、まだ失っていない何かが輝いている場合があります。
|06-12|作家方針の工夫||TOP↑
日本の絵を欧米で展示する。しかし、きれいに徹した絵は伸び悩みます。日本の絵の何割かはきれい型で、日欧文化ギャップの洗礼を受けます。

そこに、作品の梱包も相関するのです。作品を一点一点ていねいに包み込み、厳重に何重にもくるんである荷物は、同じフラグが立っています。

ドイツで何度も売れた作家の新作が届いて、少し驚きました。ビニール袋にまとめて放り込んだみたいに簡素で、作品同士こすれ、軟らかいのは曲がり、一部は角が折れて。顔料が落ち、粘着も張り付いて。クッションも簡略。それで結局、現地で目をつけられ売れる。これはいったいどういうことか。

梱包の態度は、制作の態度と似ます。絵を物理的にかばって守ってしている場合、制作の筆でもかばって守ってしているのです。欧米の目に、踏み込みの足りないアマチュアの作品に映ります。

逆にかばわずに描かれた絵は、踏み込んだ本物の仕事に映るらしい。ピカソの絵はアトリエに無造作に置かれ、端に泥がかかっていても無頓着だった逸話がありました。欧米はワイルドでダーティーな絵を求め、日本はセンシティブでクリーンな絵を差し出す構図。

これは、日本で芸術の意味が間違って認識されているせいと思われます。一点の曇りもない純粋物質を至高の芸とみなす誤解が、共通認識にある疑いです。美術の美を、美品的な清潔感に重ねた勘違い。若い世代までが染まりつつあるのは心配です。
|02-17|作家方針の工夫||TOP↑
ネットで仲間をつくれるSNS。日本での主流は、パソコン通信フォーラム、投稿掲示板、Mixi、Twitter、Facebookなどと変遷しています。美術家で、SNSの輪で自信をつけ、支持基盤の大きさで大物然とするケースも。

しかし一般にSNSの意見は片寄ります。ソーシャルな関係を保つために色もつくし。「よくある平凡な作品ですね」とは言わず、「とても心温まります」「最高に好きです」と言ってくれる。作品へのダメ出しを荒らしとして排除すれば、へたすると教祖様の立場にもなるでしょう。

ドイツで大ヒットが決まっているかのような雰囲気の方が過去にいましたが、もしかしてSNSが根拠だったのかも。「支持者が」という言い方があったような。確かに向こうは日本よりキャパシティーは大きく、買う心の準備があります。が、個別の作風をこれから試すところで「自分は絶対」では、結果にショックを受けたり落ち込む元です。

売れる常連は、国際アート都市のタフな商戦とは、距離の取り方も違うようです。ひとつは、作品内容と値段のバランス感覚でしょう。バランス。日本の号いくらの目安は通用しないのが普通です。

日本の現代美術観は、「芸術は自由」の意味を、素人芸や学生の乗りで考えがちです。だから特異性が不足して平凡になりがち。パリやロンドン、ミラノ、モスクワ、NY、ロスからやって来た作品と比較される前提で、価格相応の価値を見せることが大事でしょう。仲間内の優しい称賛は、目測を誤まる元になるでしょう。
|02-14|作家方針の工夫||TOP↑
具象と抽象を両方作る西欧の画家は、20世紀にやっと現れました。最初の抽象画は1907年だから当前。民族学による第三世界の造形をヒントに、西欧で抽象美術が生まれ、やがて多様化の時代が来たわけです。一人の作家が、全く違う作風を複数手がける時代。

しかし何系統も続けると、二兎を追う弊害も出てきます。どの品種も極まらずに拡散した作家の例もみられ、何屋さんを目指すか迷走ぎみだったり。確たる顔がつくれない遅れを、本人もわかっていたりとか。

年季イコール芸術ではないとしても、創作には時間も必要でしょう。ある絵を完成させるのに、その絵を何枚も描かないと、絶妙に収まらないのはよくある体験です。多品種に拡散しない方が、傑作の出現率が上がる計算。

日本に限らず、芸術という概念を職人芸で代用している人は世界中に多くいます。要するに、手が器用な細かい仕事を指して芸術と呼ぶ勘違いです。しかしそうだとしても、芸術性という得体の知れない迫力にも、細部の詰めを要するのは事実でしょう。手の器用さとは別の次元で。

たとえば鳥の絵で、木立の枝が鳥に一部隠される、その隠れ方もだんだん気になるのが本当でしょう。くちばしと葉の干渉も。位置関係を少し変えても良し悪しが生じることでしょう。前例のない破天荒さえ場数を踏んで結実させるもので、一発で成功させるのはたぶん無理。
|12-21|作家方針の工夫||TOP↑
物ごとには道理があり、しかし同時に人の感情もあります。作家コンセプトにも、道理と感情の割り切れない部分はみられ、それが作品の幅を広げているように思われます。歪みが生むおもしろさというか。

道理を感情がじゃまして結論が歪んだ例として、光を超えた通信速度、未来へのタイムマシン効果があります。たとえば地球から長い棒を伸ばして、月に届かせる。その棒を、ぐいっと1秒間に1センチ押す。秒速1センチなら、光よりはるかに遅い物質移動で済みます。誰もが出せるスピード。

次の瞬間、月の側では棒が1秒で1センチ突き出して来るから、光が到達する1.3秒よりも一瞬早く信号を受け取るのに成功できる。このリアル感をもって、光速を超えることは可能だとする世界認識を、本気で信じる現代人が多いというのです。「こんな簡単なことに気づかない物理学者たちは頭が悪いね」と、ジョークでない本気の声さえ出てきて。

実際には、1.3秒よりも早く月に信号を送るのは不可能で、それは重い棒を押せる力持ちが地球にいないとか、途中でぐにゃりと曲がってロスするなどを理由としません。粒子の波動が伝達する速度が光速よりはるかに遅いという、抽象的な説明になります。

この抽象論は、すぐに具象的な感覚とぶつかります。ついには、世に完ぺきな棒さえあれば光を超えられるという結論に行き着く始末です。この結論は間違っていて、「光より速い物体があれば、光より速い方法は存在する」式のトートロジー的な閉そく論理循環にすぎません。「可能な手段さえあれば、可能になるのに」と悔やむのは無意味です。

人間のこうした不正な現実感は、科学には出番がなくて、架空の創造たるアートに出番が用意されます。しかし残念なのは、日本では絵画を模写的なさし絵とみなす点です。理にかなったモチーフが喜ばれ、科学なら許すファンタジーを、アートでは許さない固い感覚が悔やまれるところ。
|10-30|作家方針の工夫||TOP↑
日本で個展をやろうとギャラリーを訪問し、証明書を求められた画家がいるかも知れません。国内外の大きい賞をとった証明、または欧米アートムーブメントの影響を受けた証拠、東京の有力者が書いた紹介状の三点です。

この三点セットへの依存は、マネージャー氏がポートフォリオ作品を見ても判断できず、活字情報を頼っていることを意味します。自力では画家の価値を測れず、外部の評価に頼らざるを得ない実情です。要するに、うちは芸術はわかりませんと、画家に告白したかっこう。

この時、画家は悩み始めます。この地において、美術が一番できるプロ画廊がこれだと、客も知れているだろうという不安。芸術がわからないと最初から釘を刺された場所で、やる意味があるのか迷い始める画家。

日本では、美術の価値は中央の偉い人が決め、地方へ伝令が行くイメージが定着しています。若い画家たちは作品の工夫で先は開けないと知り、資格社会と縁故社会に合わせた身の振り方を迫られるのが実情でしょう。

そこで、試しに外国へ出品する。そこには、審査を通過した作品のみ展示される検定発表会はなく、展覧会はアンデパンダン展式の商談の場がほとんどです。客の誰も、芸術がわからないとは言い出さない。わかっているかどうかは別にして、無名の穴場を狙ってくる客の多さ。

この時、画家は悩み始めます。この地において、美術で一番伝えたいことを決めていない不安。自分の価値を知らない不安。芸術がわからないと言い出さない相手に、いつもの証明書が通用しない不安。
|10-26|作家方針の工夫||TOP↑
各国の商業ギャラリーは、画家の制作に注文をつけます。作風をこうして欲しい、ああしないで欲しいと。アメリカのギャラリーも注文が多いと、参加者からも一報がありました。我々も、とっくに制作アドヴァイザー兼任です。ただし指示や要求とはいえない、プチ提案止まりですが。

商業ギャラリーが取り扱い作品の改良を要求するのは、買い手の価値観に合わせて売りやすくする目的なのは当然です。商品にお客の声を反映すればするほど、繁盛する近道なのも当然。

しかし画家としては、納得できない作品を作るのはちょっとねという人生観があります。その根底に、今日の古典名作は当時は対価に見合わず、売れ残ったものばかりという基礎知識もありそうで。今売れまくったら将来消えるという普遍的法則が、売り絵への傾斜を躊躇させているだろうと。

デザイン物と違い、一過性トレンドに色気を出すわけにもいきません。「あっちよりこっちが、より芸術的に感じられる、その根拠となる原理と、差異が生じる秘密はこうこう」という、選択分岐の説明がここでは中心です。人類史的な基準だから、美術学校や業界の風向きとは違っています。

ただし、より売れやすい方向と、より芸術的な方向が、ぴたり一致する場合もあれば、正反対の場合もあって複雑です。そのずれが日本よりEU国は小さかろうとの感触は一応あるのですが。EU国から日本に進出する画家が少ない点も、そのひとつの根拠です。
|10-18|作家方針の工夫||TOP↑
「優しくなるには強さが必要」的なフレーズがあります。高倉健もスクリーンで言ったような、言わなかったような。絵をかく時、そこはどうなのか。優しい絵に、強さは必要なのか。

強い調子の絵は、見る者を押し返そうとする。その逆の優しく引き込む繊細な絵が目標だからと、弱い感じに描く。そんな画家がいます。作者にヒアリングしなくても、そう絵に書いてあるし。しかし結果は裏目に出ています。

おしるこを甘くするのに塩を入れる話以前に、引きぎみの絵は普通は死んだように感じられるものです。死の表現でもなく、気の抜けた、だれた絵。引いたとたんに発言力が薄れて、本命の穏和な表現も相手に届かない。原理はともかく、結果はそうです。

つまり傑作の中には、強い絵と弱い絵の二とおりはないわけです。強い傑作と、弱い駄作に分かれるだけ。ではいったい何を指して強い弱いというのか、疑問も出るでしょう。簡単なことで、パーツが小さい絵は弱い。全体に対して部分が負けた状態。少ないおかずを、大きい弁当箱に入れた感じ。

それなら単に大きく描けば済みそうな話になりますが、実際にやるとできないのです。見えない描画プレッシャーに気持ち負けして、自然体で挑んでも小さく縮んでしまいます。良好な絵を目指して筆を手にした人は、例外なく全員がこの壁にぶつかります。

日本でよく言う絵の強い弱いは、たいてい商品価値の話です。買い需要に照らし、売れ線を強い絵と言っているだけ。企業株の強弱といっしょ。今はそのエコノミックな話ではなく、時間と空間を度外視した普遍性として、作品が場を支配する力の話です。
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