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2024/01/30

人工知能AIで芸術性を足す術|既成の概念を超える知恵を持つか

人工知能AIに「太陽が地球を回っているのは本当か?」と質問すれば、今では「それは近世までの誤解であり、本当は地球が太陽を回っており、ただし宇宙の中心は不明です」と答えるでしょう。が、1600年代の知識なら「そのとおり、太陽が地球を回っています」と答えるのか、答えないのか。

当時もAIがあったとして、AIがコペルニクスの本を理解し自らも思考して「地球が中心にある今の常識は全くの嘘です」と回答できる知恵を持てるのかを考えたい。世の一般常識が間違っている時に、間違いを拾い集めて念を押すマシンは困りものなわけです。

人工知能AIにリーダー的な発言力や、お墨付きになる権威を与えないよう、人類は注意が必要かも。そんなAIで、「雨、クリスマス、女性」とプロンプトを入れて、絵を描かせるのは今では容易になっています。では「切ない、葛藤、失恋」とだけ入れて、どういう絵ができるのか。これから試してみたい。

「芸術性」は各国で定義も思いもまちまちです。「芸術性あり」「芸術性なし」の言葉でAIが描き分けられるか。海外展示会では芸術性ありへと作品を改良し、作品売却成功率を上げてきました。しかし回ごとの当たり外れも含め、人の手の技術はまだまだ完成に遠い。

当方の見方は「作品に違和感がある」「激情が潜む」です。逆に「スッとなじめて癒される良品は脈なし」です。これは歴史名作の特徴を見ての学習であり、結果論をフィードバックするアプローチで戦術を立ててきました。

「価値の定評」をあてにしがちな日本と違い、海外では知らない作家の作品も掘り出して買う人々が目立ち、その点はやりやすかった。芸術性を加えると売れ出す。つまり芸術性を後付けもできました。年季の成果ではなくて。それをプログラム化して、画面に映せるAI装置の設計を考えています。
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2023/12/22

ザ・クリスマス・ソング|一番好きな曲によくあがる音楽の決定的秘密

日本人は無宗教が多いと言われますが、実際には仏教の概念が日常の中に多く入っています。なので世界からみると日本は仏教の国とされ、奈良や京都のお寺巡りは日本を知る入り口として定番の人気です。

ところが仏教には神や偶像やヒーローがなく、宇宙の原理と人間の心理との関係を解くヒントを多く用意した体裁になっています。それで教義や戒律の原理主義なども起きず、ゆるやかな流派や団体があるくらい。生け花の世界とやや似ているかも知れません。

聖徳太子の時代に対立した神道とも両立し、さらにキリスト教も定位置を確保できているのです。定位置はクリスマスです。12月中旬に日本国民は、かつて実在したキリストなる人が中東で活躍して、当時の宗教の入り口を広げようと苦心した物語に触れます。

クリスマスといえば連想するものは日本では「ツリー」「サンタクロース」「プレゼント」「ケーキ」が浮かびますが、「クリスマスキャロル」の入り口を広げた「クリスマスソング」も大役を果たしています。広く経済的にも。

近年のオムニバスCD盤には『きよしこの夜』などに混じって、ロック系のポール・マッカートニー『ワンダフル・クリスマス・タイム』が含まれます。しかし世界で一番広く愛された曲なら、ナット・キング・コール『ザ・クリスマス・ソング』が定番でしょう。カバーバージョンがとても多い。

ジャズ歌手のメル・トーメがボブ・ウェルズと作詞作曲。ジャズ曲は深みが違う。庶民の幸福をテーマに、アレンジはオーケストラが重厚な影差す音を入れてきて、さわやか路線と一線を画すもの。芸術の極意も感じさせます。

→ Nat King Cole - The Christmas Song
2022/03/07

フランソワーズ・ジロが今100歳で存命|ゲルニカからパリ占領

ピカソと暮らした女性の一人フランソワーズ・ジロが100歳で存命だと、経済系のSNSで知りました。1921年(大正10)生まれで『ゲルニカ』の時は高校2年の計算です。ベルリンの壁崩壊、9.11もコロナパンデミックも我々と同時に見ていて。

ピカソの名作絵画のモデル女性はマリー・テレーズとドラ・マールが多く、世紀の傑作『泣く女』より後。画学生のジロにピカソは声をかけました。ジロはピカソの子を連れ別の人と結婚し、ピカソはジャクリーヌと結婚しスペインのお城へ。その後はダンカンの写真集で知られます。

ジロはピカソ絵画が熟した時代と、いっそう飛躍的に破壊した時代のはざまのインサイダーです。ジロの最大の話題性は、ピカソを捨てた唯一の女性として当時本も書き、ピカソ語録とともに天才のプライベートを表に出しました。

ピカソの言葉はどれも芸術的な含蓄にあふれています。創造は発見であり、手の器用さが生むのではないと、彼は知り尽くしていました。比喩的な言葉が多い。芸術が常に誤解されるストレスを、芸術に疎い周囲にぶつけていた疑いもあります。「好きなら続ければよい」と自作を評され、ジロは筆を折っていました。

画家ジロの後の絵はピカソを薄めたような画風で、今もインタビューでのウィットがピカソ風に感じられます。弟子のように受け継いだ感もややあります。全く違う絵へ進みはせず、キュービズムからの派生が中心になっていました。

二次大戦でナチス軍に占領されたパリに二人はいたはずで、今起きている三次大戦初段ロシアのウクライナ侵攻と爆撃で、二次大戦に記憶が引き戻されているのかも知れません。93、4年前の記憶を語る記事も、世界にネット配信できる時代です。
2022/02/19

五輪の上位選手も予選落ちやビリから始まる|企業の選別を考える

日本では企業の淘汰が流行中で、ゾンビ企業をつぶし優良企業の通行を優先して、イノベーションを図る思想です。この選択と集中は誤ったやり方で、未来の優劣を予想しても結果は逆に出ることも多いのです。

新興の成長企業は実は20年以上前の創業だったり、低迷し続けた果ての大ヒットが多い。五輪のメダル選手とも似ています。メダルの選手は過去の五輪にも実は出場していて、予選敗退や本戦ビリだったとか、天才も最初は4位止まりだったとか。

スポーツ競技は本番の一発演技なので、偶然のさい配も比重が大きい。メダルは運が半分だという声は、勝った選手からよく聞こえてきます。謙虚だというよりも、勝てた理由に確証は特になく、互角の相手にたまたまだとの実感をよく聞きます。

今回もスピードスケートは成績がよかったのですが、おそらくコロナ禍での制約が国によってまちまちで、見えないハンデの濃淡が各国で異なったと考えられます。番狂わせが多かったであろうと。だから成績よりも、個人の苦労や工夫の断片などに目が行きます。

コロナ検査で出場許可されなかったり、自国で感染した選手もいたはずで、夏の東京五輪ほどではないにせよ、番外編的な冬五輪と考えます。そんな中で今回も感じたのは監督やコーチや先輩や仲間の力です。ナショナリズムは健在というところ。

これは美術で足りないと常々思っていることで、共同体としての団体パワーになる基盤が欲しいところです。一人で自由に好き勝手にやるとしても、干渉がない孤立した制作は閉ざされやすく、純粋培養的になるマイナスを感じます。
2022/02/15

スノーボード平野選手の2回目採点にブーイング|芸術点数のあいまい

五輪は夏が好きで冬が嫌いな人は、雪と氷の祭典の「寒そうだから」以外に、採点競技のあいまいさも言われます。動画サイトに続々と現れたのが、スノーボード・ハーフパイプの平野選手の二回への採点への不満です。

全選手中抜きんでいたのに、過去に照らして変に低い採点で、他選手よりも低い数字になった疑惑です。難易度へのチャレンジから完成度、正確さも全てが優ったのに、低評価にとどまって優勝が黄信号になりました。

アメリカでスノーボード競技の確立に尽力したレジェンド、トッド・リチャーズ氏は放送中に怒り出し、翌日のオーストラリアの新聞見出しは「逮捕されるべきだ」と。北京の問題ではなく、スノーボード界の採点システムの問題だという。

たとえばスキーモーグルにはベース点があり、当年のワールドカップの成績で基礎点数が計算され、五輪本番でいつもとのプラマイで好調か不調を表し、タイム点との合計で見た目と順位に狂いがないかをチェックしています。見た印象と違う順位だと、具合が悪いから。

フィギュアスケートは技術点と芸術点があり、これも見くらべた実感と順位が逆にならない注意が払われます。が、芸術点が買収された事件が何度も起きています。美を採点するコンテストは、審査員の思惑が反映するという宿命です。

美術のコンテストも同じ欠点を持つから、西欧では早くからアンデパンダン展方式がとられ、主催者は採点せず全点展示で販売し、民主的な採点にまかせています。今日のアートフェア方式です。ゴッホも恩恵を受け、人々に見せることはできました。そして嘲笑されるまでにはこぎつけました。
2021/02/13

チック・コリア死去・東京ジャズ祭の看板スター|大物の訃報続き

ジャズ界のスーパースター、チック・コリア氏が、コロナと無関係の珍しい疾患で死去していた訃報がありました。マイルス・デイヴィスの『ビッチズ・ブルー』に登用される前の初期の盤で、すでに作曲とピアノ演奏の才が開花していました。

報道で出た代表曲は『スペイン』『ラ・フィエスタ』『500マイルズ・ハイ』などで、もちろん『リターン・トゥー・フォーエバー』が最も有名でしょう。しかしオリジナル作曲が多い中、ロドリーゴの『アランフェス協奏曲』の翻案『スペイン』が筆頭ではちょっとという感じ。

すぐに思い出せるのは、後にフローラ・プリムが歌った『ウィンドウズ』や、長尺サンバ『フレンズ』、間奏ふう『インディアン・タウン』、日本がテーマの『シルヴァー・テンプル』(銀閣寺)などです。曇り空から一気に日が差すような劇的な展開を次々と生み出す、天才的コンポーザーでした。

彼のやり方はジャズの伝統どおりで、新人との共演から新しい世界がきっと現れる期待どおりの成果を出してきました。伴奏と曲提供の裏方に回り、アルバムの価値を上げたケースも多くありました。ジョン・マクラフリンのソロ再出発とか。

得意技は即興でも耳を引くメロディーと、コードの不協和音を細かく変えながら、フロントを引き立てるミラクルなプッシュが目立ちました。大胆かつ芸が細かい。共演ミュージシャンが大成しやすい機会をつくり出す、そういうサポートがかなりうまい人でした。

従来と違うことをやることで、人類の資産は合計が必ず増えていくのだと、明快な原理を実践していました。そんな様子を美術畑からみると、古い体質にさえぎられない動的な分野の良さをつくづく感じることもあります。
2020/08/01

へたなデッサンが現代のテーマとわかる比較図|現代絵画の迫真性とは

昨年秋に、地元の図書館へ初めて行きました。新刊ばかりの書店と違い、古風な雰囲気です。音楽関連コーナーにくらべて、美術関連コーナーはけっこう蔵書が多くあります。比較的新しい本のひとつに、デッサンの技術書がありました。

「写実デッサンがこんなに上手に描けるよう、あなたを変えます」の教科書です。鉛筆デッサン画のビフォー・アフターが並んでいます。「おっこれはすごいぞ」と思ったデッサンがありました。上達したアフターではありません。ビフォーの方がよく見える絵なのです。

ビフォーは正確さに欠けて、歪んでいます。変なくせがあるのです。それに対してアフターは正確で、個人のくせが消えています。ニュートラルでスタンダードで、端正で透明な存在です。その教科書が目標とするデッサン画は、実は18世紀に西欧が目指した方向性です。

それに対してビフォーのデッサン画は、後期印象派以降のデフォルメ系に映るのです。セザンヌ以降の絵か。それだけ新しい感覚だからモダンに見えます。しかし、へたな絵の方がモダンに見えるのはなぜでしょう。それは、19世紀後半からへたな絵に迫真の時代を感じる歴史的な変化です。

訓練不足のデッサンほど、我流が多く混じります。そのまま独自色となりやすく、現代に求められるユニークを達成しやすくなります。皆が同じ模範回答を目指して免許皆伝としたのは、19世紀前半まで。その後の作画は個性化の道でした。

現代のアーティストは間違った絵に賭けており、独自の作風に意味を見出します。写真のごとくちゃんとした絵が必要なら、写真で済むというだけの話。つまりカメラの発達で絵の役目が変わり、写真では撮れないへたな絵の競争に変わりました。間違い方が足りない絵は、歴史が選択しなくなりました。
2020/07/20

地球温暖化と寒冷化の結論ありき|冤罪の構図と同じ人類の普遍性

今年の梅雨はやや長引き、地方都市は異例に気温が低い毎日で、夏休みになるのに昼の温度は低く夜は肌寒いほど。なのに地球寒冷化を言い出さず黙っているのは、おもしろい現象です。

警察や検察が起こす冤罪事件は、構図にパターンがあります。「こういう事件だ」「こうであるべきだ」の結論が先に決まっていて、結論を補強する状況証拠だけを選び出してそろえるのです。結論に反する状況証拠は、却下して隠したり、時には作り変えます。

前に、犯罪の証拠がない容疑者を有罪にできるよう、検察官が押収したデータファイルの日付を書き換えた例がありました。途中で弁護士が見破り、大きい事件となりました。決定的な証拠の日付を書き換えた検察官の意図は、事前に決めた結論に落として正義を貫くことでした。

同じことは、国民全員が普段から毎日やっています。暑い日が続くと地球温暖化の社会問題を声高に唱え、寒い日が続くとその話題に触れないで、暑い日が来るまで待って、来たらまた温暖化を叫ぶという態度。

私たちは、検察にワルがいたと解釈するのではなく、人類の脳のはたらきの普遍的な機能だと考える必要があります。望む結論に落とそうとして、証拠を取捨するなどは誰もが日常的にやっていることなのです。

たとえば日本人は具象画だけが好きで、抽象画はからきし苦手だというのも、きれいに割り切れる現象ではなく、程度の問題になっています。ただ程度に片寄りがあるせいで、市場が変に小さいとか、具象画も盛り上がらず国内の斜陽産業になっているだけです。
2019/09/01

カオス理論と人工知能AIと芸術創造|絵画のシンギュラリティー

カオスと言えばてんやわんやのドタバタ状態や、混沌として収束がみえない意味で使われます。一方カオス理論といえば、将来の結果が予測不能の数学的用語です。その意味のカオスの例が天気予報で、ネットに一週間後の予報はあっても二週間後はありません。完全に不明で、見当がつかないからです。

小惑星や彗星が、地球に衝突する予測もそうです。カオス理論の真意は、わずかな差が大違いの結果へ拡大する、脱線の予想外の大きさを言います。サイコロを振った偶発性でどっちへ転ぶかわからない意味の、ランダム成分は除外した話です。

カオスと人工知能AIは関係があります。AIの意味というか、性能向上は大きく二つに分かれます。メモリー容量が増えて、対応が細かくなったタイプが「弱いAI」。対して、思考力や創造力をAIが自力で生み出すタイプが「強いAI」。二つは次元が異なります。

映画『2001年宇宙の旅』で人工知能HALは、乗組員が電源を切る計画を光学レンズで読み取り、阻止しようと乗組員にミニ工作船をぶつけて殺します。今になって出てくる疑問は、電源を止める者を殺すよう設計担当者がプログラムしたのかという点です。していないなら「強いAI」です。HALはドラえもんに近かった。

詳細なプログラムとビッグデータで補強した性能向上なのか。それとも行動ルールのプログラム自体を、機械が書いて増やしていける性能向上か。AIは2045年にシンギュラリティー(特異点)に達すると学者が言う、その意味は後者の実現です。それが発端で人類が絶滅する指摘も少なくなく、貨幣のAI管理も絶滅理由です。

前に参加者の絵のテーマがシンギュラリティーだったことがあり、絵画制作の作業は強いAIのはたらきをイメージしやすい。絵は既存の何かに必ず影響を受けます。しかし芸術家は、既成作品に似ないよう変えるのです。その時、脳内で制作ルールそのものを新しく創造します。その飛躍は天気に似てカオス理論的です。
2019/08/23

愛知「表現の不自由展」で消えていた話|闇鍋に入れる材料の制限

テレビ漫画『巨人の星』に、闇鍋(やみなべ)パーティーのシーンがありました。捕手の伴宙太が高校時代に開催した宴です。伴は主人公で投手の星飛雄馬の隠し事をしゃべらせようと、暗い部屋なら打ち明けるかも知れないと、一計を案じたのでした。

箸でつかんだ物を一度は口にするルールで、履き物が入っていてギョッとなる場面もあったはず。しかしあの闇鍋、客の野球部員にガラクタを持ってくる指示に現実感がなく、非常に奇妙な場面でした。食品でない物を入れる必然がないし。

本来なら魚や肉や野菜に、穀物類というのが適切でしょう。入っている物を知らせ合わず、暗い部屋で皆がつついて、食べてサプライズが起きる楽しい宴なはず。もし食品でない物を入れてよい前提なら、いったいどうなるかということ。

草履や靴にとどまらず、石や金属類、ボタン電池やサボテンや、汚物、毒物、劇物を入れて、大変な結果になります。起きた結果の大きさを、わーすごいヤッターと喜ぶという。実はこれとよく似たことを実際にやり、ウケているのが現代アートの世界です。

『表現の不自由展』の議論で空転したのは、作品を区別する言葉でした。許せるか許せないかを分ける言い方でコケる。闇鍋にトンデモな物を入れて、皆を驚かせて騒ぎをつくる。それがスイカの実やわらび餅なのか、それとも手榴弾やダイオキシンなのか。国民は言葉をこらしても、二つの関係をうまく区切れずにいます。

わらび餅か手榴弾かは自由の大小ではありません。なのに、行き過ぎた自由はだめという線引きに話が流れ、程度の問題で落としがちです。これは、欧州展示で宗教やヒトラーでの話題づくりを禁じる我々にも切実です。この疑問について、出版以外に何度も何度も論説を書いてきました。
2019/07/15

美術と税金を理解不能にする誤った前提|根底に一個ずつある信念

過去に、知らない他人と美術の話をして、埋まらないギャップをよく感じました。何が支障なのかがまだ不明だった頃、他人はわからずやだと思ったものです。後に怖い構造を知りました。前提を間違うと、玉突きで間違いが広がる怖さです。

埋まらないギャップの原因は、日本語の語感でした。「美術」の語が諸悪の根源です。「美の術」から「絵や彫刻は美しくあるべき」という前提が導かれ、日本人の脳内に隠れています。日本語だけに美という語があるせいで、日本のアート制作も鑑賞も耽美と古風に向かいます。

「灰色の絵画やモノクロ写真は、美に欠けるので正しい美術でない」「その美しくもない絵が世界的に評価が高いというなら、僕も一応それに従いますけどね」と。「世界のピカソならよし、日本人はだめ」。どうも屈折がつきまといます。

前提の間違いは税制でも起きています。参議員の候補者に、消費税を廃止する主張がみられます。それに対して、消費税廃止を笑う側の意見はこれです。「減税して税収が減ったツケは誰が払うわけ?」「税金を何だと思っているんだ?」。

書いた人は、国家の運転資金を集めるために、国民が出し合うお金が国税だと勘違いしています。これ美術でいえば、まるで絵画『ゲルニカ』を見て、「灰色の絵は美しくないから厳密には美術失格」という反応と似て。間違った信念を心得ているせいで、理解の入り口でコケています。

政府はお金を発行する立場だから、不足して困れば刷って市場へ入れて済みます。国と家庭は同じという説明は引っかけで、政府は貨幣を刷れる神の地位です。刷る時に誰の預金も借りない。国税は何なのかは、物価の安定と所得再分配です。徴税を財源確保だと頭から誤解する限り、失われた27年は30年、40年、50年と続く。
2019/06/09

絵のモチーフはひとつを繰り返す方が傑作が出る|ピカソもこの方式

アメリカのある予言者が、日本の東日本大震災を初め、世界で起きた事件を予言した実績を誇りました。ノストラダムスのあいまいなポエム文を、現代の出来事へと言い回しで結びつけるトリックと違い、具体的に何年何月に大地震が起きるぞと、的中させたのです。

的中が本物だと信じる理由は、事前に予言内容を郵便として出し、局に記録がある点です。郵便や記録を偽造と疑うことも可能ですが、日本のテレビ番組では予言は本物だと解釈していました。しかしもうひとつ、隠れた情報がありました。

その予言者は年に三万通の郵便を出していたのです。鉄砲を数撃ち、いつか何かに弾が命中する方式でした。それならとスタッフを増やして三百万通出せば、日本の今後820年間に起きる地震を、一日単位の精度で的中できます。時刻も的中させるなら向こう34年分。たくさん予言すると、どれかはぴたり当たる。

このやり方に近いのが、ピカソの絵でした。ピカソは絵を壊して再編するアドリブ方式なので、偶然の当たり外れが激しく駄作が増えたのです。そこでギネスブック記録にもなった世界最多の作品数によって、傑作の数も多い結果を得ました。

当展示企画の参加者も同じで、「おっこれはいけるぞ」という作品は、同じか似た構図の類似作が何個もあるものです。グラフィックデザインも同様に、試作が持ち上がって完成するのではなく、同じものを何度も一から作り直して、同じ図案の別案へ生まれ変わっているのが普通です。

この事実は、画家が一モチーフを一作で終わって、はい次と渡り歩く気分転換した制作法では、完成度が出ないことを示すでしょう。似たような作品をこりずに繰り返すことで、偶然どれかが絶品になっていたという結果論があります。
2019/05/12

美術作品の価値がわからない日本人の悩み|価値を知るべきなの?

最近、個人サイトのアドレスを引っ越しました。プロバイダー契約に付属する容量貸しがデフレ不況で廃止され、紹介された別事業者の無料スペースは、CGI やPHPはあれど広告が出る欠点があり、結局独自ドメイン内に収めました。

サイト移設は検索ランクを受け継ぐなら手続きがありますが、訳ありで裏技だけで済ませたら、早く検索に現れました。そのついでにあれこれ検索してみると、目についたのが「美術の価値がわからない」と書いたサイトの多さです。

「美術がわからない」でなく「美術の価値がわからない」と、「価値」を書くのは実に日本的です。国民が芸術を理解できない前提で話が進められている問題です。ドイツでは普通、「自分はこの作品のよさがわかった」と思って買うわけです。

ところが日本では、「自分はこの作品の価値がわかるべきである」と思いやすく、鑑定みたいな鑑賞になりがちです。価値とは値上がり益の見込みかという、揚げ足とりは一応やめておきましょう。

としてもその裏には、神が知る絶対的な価値がある前提で話をしている疑いがあります。ポピュラー音楽を「聞いたがわからない」とは言いますが、「聞いたが価値がわからない」と言うでしょうか。美術の時だけ価値にこだわる空気です。

価値は神ではなく人が決め、雲の上の人ではなく僕らが決める。この正解を音楽の時は発揮し、美術の時は消える条件反射がくせものです。万物に固定した価値なんてものは実はないから、自分なりに賞味すれば済むことです。美術鑑賞こそ自分勝手の発揮しどころなのに、皆さんコチコチでギクシャク。
2018/07/30

犯行の動機と制作の動機:真相は常に闇の中|ジョン・レノンとピカソ

世界最悪のテロは、1995年の日本で起きた地下鉄サリン事件とされます。カルト宗教が化学兵器を使い、不特定多数の殺りくを成しとげた唯一の例だから世界一。政情不安な国でも、ここまでの惨事はないらしく。

日本国民に最悪の感覚が薄いのは、当時のカルト団に賛意が集まった点もひとつ。今も犯人側に同調する識者は多く、外部応援団がいた当時のままかと錯覚するほど。日本を変えたい潜在願望の層の厚さなのか。

目立つ同調はテロ実行犯は良い人だというもので、これはマインドコントロールが広範に及んだ当時を知らないと理解が困難でしょう。警察官や自衛官など公務員も入信し、事件阻止と捜査に逆風が吹きました。団体と報道関連の縁故も複雑にからんだ難事件でした。

今も聞く意見に、「事件の動機が明らかになっていない」があります。この動機解明願望の例として、ジョン・レノン殺害事件を思い出します。延々と続く「動機は何だ?」の問いに、動機の解明とは何だ?を思うのです。

動機は犯人が語っています。なのに未解明との声があるのは、解明内容が気に食わないからか。自分なら殺意なんか抱かないから、告白内容は虚偽なのであり、代わりにアメリカの闇を早く白状しろという思いのファン。望む解明内容を延々と待ちわびることになるという。

動機の闇といえば、絵画制作の動機が記憶にない現象もあります。画家なら知ることで、制作には自発と偶発が混じり、作品はただ残るだけ。ピカソ『ゲルニカ』がモノクロ画調である動機は、戦争表現の意図よりも、大画面に塗る絵具の混色がめんどうだったのかも。動機なんてこんなもん。
2018/06/19

コロンビアに日本が勝てたのは順当か意外か|ワールドカップ2018

今夜の日本のサッカー試合も、事前のフラグどおりの結果でした。すなわち、前評判が高いチームは振るわず、最低最悪と言われたチームが善戦する法則です。期待と結果がひっくり返る、いつものお約束というか。

勝てそうなら負けて、負けそうなら勝てる結果論が、サッカーには異常に多い。ロシア大会のここまでの試合は、その法則が次々と表れています。ドイツに勝ったメキシコ。そして日本も。むろん偶然を含めた乱高下で逆転できる程度には、底力がある前提ですが。

評判と結果が逆転しやすいのは、人間の脳内で安心と不安がパラドックス的に作用するせいでしょう。開き直りや居直りの集中力や馬鹿力。アベレージの差が消えるほど躍進したり、逆に空回りしたり。手を使わないサッカーでは、その凸凹が増幅され、事前予想をくつがえします。

しかし同時に、見守る周囲も安心と不安で動揺を増幅させ、絶賛や非難で激しく反応します。今回の日本の監督解任も、鴻鵠の志を知らぬ取り越し苦労が濃厚。三カ月前のウクライナ戦とは逆に、2006年と2014年の日本は最高の仕上がりと言われ、本番の結果は散々でした。

ある程度で済まないほど、あべこべ結果が多発するのがサッカーのワールドカップです。不思議だけれどわかる気もするとしても、他の競技ではそれほどの番狂わせは少ないようで。サッカーの特異性でしょう。

身近には、美術作品でも起きている気がします。よくあるのは、素晴らしいスケッチ画をキャンバス画に仕上げると、つまらない作品に終わる結末です。どうでもいいスケッチの方が着彩して伸びる、逆転の法則。しかしこれは似ているだけで、サッカーの法則とは関係なさそう。
2018/06/14

サッカーの貴重な一点と、美術の貴重な一点|勝負は水ものだから波乱

サッカーワールドカップ2018ロシア大会の、賭け予想に使うオッズがイギリスで発表されています。日本代表チームは勝てそうにないから倍率が高いのですが、アジア勢では最も勝利に近いと予想されています。おそらくジャパン・ミステリーというもの。

日本チームに期待される何かは、まずは幸運でしょう。サッカーで耳タコのことわざに、「強いチームが勝つのではなく、勝ったチームが強いのだ」があります。勝負は水ものだから、結果をみて初めて強弱を言えるという、ゲームの不安定さを言っています。

サッカーと逆の傾向はバスケットボールで、得点回数が多いし、地力と逆になるほどの誤差は出にくい。力量差の最新推移が、結果に相関しやすい。サッカーの方が番狂わせが目立つのは、得点回数が極端に少なく、また手元の狂いよりは足元の狂いの方が大きいからでしょう。

だから、仮にジダンにでも長く監督をまかせ、試合直前に高校教師に監督を取り替えても、「自分たちのサッカー」で勝てる可能性はあります。それだけに、チーム育成と本番の指揮を別人が担当すると、手柄があいまいになり喜びも悲しみも半減する道理で。

ところで、美術制作の勝ち負け。日本なら受賞を目指す公募コンテスト展、外国なら売却を目指すアートフェア。これらに作品を出しての勝負は、果たしてどの程度水もので、番狂わせが起きやすいのか。貴重な一点とは。

誤差どころか、ワザありの尺度がTPOで正反対なのが美術です。なぜこれが高く売れた?、なぜこっちが売れない?。スーパー水もの。それどころか零点のみじめな全敗が、百年後に値千金に輝くかも知れず。おもしろさを通り越して、わけわからん混沌がいつものことなのがアート。
2018/05/13

ロストテクノロジーが暗示する芸術の運命|ピラミッドとアポロ宇宙船

ピラミッドとアポロ宇宙船の匿名ネット議論は、芸術の考察に役立ちます。それは宇宙人と地球人との関係や陰謀論という切り口よりも、人類のロストテクノロジーの観点です。この手の話題は何度もやってきました。

ピラミッドは科学技術が発達した今も作る方法がわからないから、宇宙人が作ったのだという説。アポロ宇宙船は六回着陸した後に、科学技術が発達した今の誰も月に行けないから、『2001年宇宙の旅』の映画監督を起用したスタジオでの芝居だったという説。キューブリック罪人説。

どちらの俗説も、信じる人の輪は急速に広がっていて。両方に共通するのは科学が発達した僕らは、能力向上し続けている前提と自負です。そこには、過去の技術が消える視点が抜けています。

最近イギリスから届いたニュースは驚きでした。学校にある時計を読めない生徒が増えたから、デジタル時計に総入れ替えした話題でした。長針と短針の位置で何時何分何秒かを読み取ることが、もう人間にはできない時代に入ったのです。原因はスマホらしく。

つまり針式のアナログ時計は、ピラミッドやアポロ宇宙船と同じ立場です。いずれ製造もされなくなり、人類にはそんな装置は作れない説の候補が、またひとつ増えた。他の候補は、ロータリーエンジンにディーゼルターボ、MT車、ガス炊飯器やカラー写真フィルムなど、ロスト予定がひかえます。逆にロストしなかった例は、音楽レコード盤。

「今の僕らにできないことは、昔はできたはずがなかろう」という現代人の自信。それは違うでしょとわからせてくれるひとつは、美術です。昔の絵を卒業したつもりでも、似せて描いてみれば浅く平坦な表現がやっとだとか。そのせいで、各国で古美術修復の失敗が続出しています。
2018/04/08

国際宇宙ステーションと歴史名作の鑑賞|人類の技術と美術が消滅する

銀河とブラックホールの力学や、ダークマターの新説がニュースに出ました。宇宙関連の話題が出ると、しばしばネットで目にする記述があります。「アポロ宇宙船は半世紀前に月へ行ったのに、その後一度も行かないのはなぜ?」。

言外にあるのは、今行けないなら昔も行けたわけがなく、当時のアメリカが国際社会をだました説です。実は行かずに芝居をしただけだと。あれから月へ人が行かない理由はむろん金がないからですが、一般には経済理由は大人の事情なので、理解する人は限られるでしょう。

アポロ以後に高度成長した日本では、金銭で困る小学生も少なく、経済観念は育ちにくかったでしょう。ユニセフが現在の日本を、児童が貧困な国としてリストアップしたのは新しい現実ですが。

科学研究の縮小といえば、国内ではスーパーコンピューターの「二番ではだめですか」があり、世界では宇宙望遠鏡の打ち切りがありました。日本もコスト負担し、幸い次の望遠鏡が打ち上げられ消滅は免れましたが。

次に国際宇宙ステーションへの出資を中止すると、アメリカは言います。ロシアと日本と、EUやカナダだけで維持は困難です。中国が作らないと消滅し、「昔あった国際宇宙ステーションは実はCGを使ったねつ造だった」と、アポロのように半世紀後のネット事典に大々的にのるかも。

昔はできて、後にできなくなったものは多くあります。身近だと木製タンス、ブラウン管、将来はガソリンエンジンとか。ターボなど誰も知らない未来が来るかも。人類のロストテクノロジー問題です。たとえば美術の名作鑑賞にも、消えた技術の痕跡をふり返って味わっている面があります。
2018/03/01

仮想通貨ビットコインの投機はゼロサムゲーム|絵画の高騰期待と違う

ビットコインなどの仮想通貨を買うのは、絵画と同じでインチキだと、ネットでは言われます。どちらも値上がり確実だと信じたら、損するぞという主張です。こちらで最近、仮想通貨と絵画の違いを記しネットに出しました。

仮想通貨の原理を説明し、値上がりするカラクリを分析し、絵画とくらべています。ただ、今の仮想通貨の目的は単純で、要は無限連鎖講です。しかし一方の絵画は無限連鎖せず、もっと複雑な価値に支えられています。

絵画を買う人は、互いに異なる作品を手にします。横のつながりがなくて個々が独立しているから、盗まれた作品が他と混じって見分けがつかないこともなく。

仮想通貨は早い購入者が遅い購入者の納入金を横取りする仕組みですが、美術にはこの横取り機能がありません。ピカソ絵画を買った人が、ダリ絵画購入者の金を得ることはなく。美術は仮想通貨のゼロサム(総合計がゼロ値のシーソー)と違い、有用性の合計が実際に増えます。

買いたい人が二人以上(競売では一人以上)いると、値上がりが始まる点は仮想通貨と同じです。しかし絵画は仮想でなくリアル物品だから資金プールはなく、仕手戦で価値を落とされる心配は小さいでしょう。

数字上のゲームと異なり、確かなビジュアルイメージが絵画です。意外に大きいのは、選ぶ目の効用です。選択眼に自分らしさが表れ、家にアートを置けば自分の芸術観が表明される。全員が異なるものを買う複雑さゆえ、絵画についていけない人は仮想通貨よりもはるかに多いでしょう。
2018/01/08

公募コンテスト展は切り捨ての検閲|アートフェアは全作品を試す前提

審査とは検閲なので、受ける側は不安です。不合格だったらいやだし。しかも審査する側に確かな基準や軸線がなかったり、ずさんかも知れないし。何年か前に、審査員と出品者が裏でつながっていた大規模公募コンテストがニュースになりました。評価の恣意性に乗じた出来レース。

ここでやる審査は、公募コンテスト式の切り捨て目的ではなく、出せるものを探す目的です。おこがましく言うなら、引き上げ方を見抜く審査。アートフェアだから、一応フェアです。意外に多いのは、出し惜しみでB級作を選ぶ失敗を防ぐことです。これは一応ジクレーで解決済み。

しかし実物も高精細写真もない場合や、既存作品がイマイチな時は、新作の方向をまず決めます。現代の美術家の大半は作風を複数持つスイッチワーカーであり、スイッチし間違うと徒労になるから。

作者の関心と外国の関心を重ねるために、より芸術的な作風を選ぶのが基本です。芸術的であるがゆえにお客に嫌われてしまう事態は、欧米では少なめとわかっています。残念ながら日本では今も多くて、参加者からもトンデモ体験がちらほら耳に入りますが。

日本だと保守対革新や具象対抽象のあつれき、ヘイトに巻き込まれる不安があります。具象だけがわかる画家が審査し、抽象が切られてはたまらない。よくあるパターンと違うから、間違った絵だと言い出す審査も横行。作品をわからないと言わず、嫌いと言い出す。自身がついていけない作品だとは白状しない、困った天の声。

結局その不合理を人類は解消できないと自覚したから、欧米の新作大規模展覧会はコンテストでなくアートフェアという、マーケット方式が主流になっています。見るお客の全員が審査員となり、しかも評価して終わりではなく、評価者が買い取る本気の対決になります。