日本からドイツへ作品を送って、売れ方を調べて研究していました。比較的早くわかったことは、売れる作品の第一は写真だという点。日本にくらべてヨーロッパでは写真アートの地位が高いとは想像していましたが、真っ先に売れるのは印画紙の作品だったのです。

写真系が売れ、フォトエフェクト系とCG系のジクレーから売れていくこともわかりました。キャンバス画やパネル作品はあまり動かない、その理由は値段に大差があったからだと、すぐにはわかりませんでしたが。

日本は20年以上ずっと不況だから感覚がつかめませんが、世界同時不況が聞こえ始めると、ペーパーアートのみのアートフェアが、ドイツで伸び始めていました。イギリスがEUオブザーバー脱退を言い出したり、移民難民問題が日本のニュースになる以前の話で。

新企画も現地に合わせ、日本のペーパーアート作品をファイリングする展示販売も試しました。すると売れたのは、手摺り版画とCGとやはり写真系でした。複写ものが強い。それなら全作品を最初からジクレーにして、もう一度ファイリングすればいけると考えたのです。

日本では美術は特殊化しており、ゴージャスやプレミアムが求められます。美術が一般化している諸外国では作品の価値は造形イメージであり、ソフトウェア化しています。データ化の意味ではなく、コンテンツ本意の意味。手にして重い必要もなく、ペラ紙の作品から売れていく現実です。

ドイツで求められる本物志向は、作品の仕様よりも内容だとわかりました。ただ、ペラ紙だと長持ちしないので、ハイエンドジクレープリンターと超高級厚手用紙にしています。日本だとかなり高料金のタイプ。
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|05-31|ジクレー版画物語||TOP↑
募集中のジクレー版画企画では、参加者はジクレーを用意しません。国境を電子で越えドイツの工房で刷り、国内ではあまり労力を使わずに済みます。もちろん梱包や発送は不要。作業の種類は少なく、代わりに作品決めなどの準備に時間をかけます。

現地で使うジクレープリンターは日本製です。ドイツのジクレー工房はどこも、「うちの機材は日本製」と宣伝します。カメラと似た状況ですが、最高品質の用紙はドイツ製で品種も多いようで、日本の紙ではないよう。さすがに画材の伝統的先進国。

工房の入稿仕様に合わせるため編集はこちらでやり、参加者は撮影するだけです。この分業で、別のメリットが目立ってきました。作品の完成度を上げる調整を加えられます。

編集調整で、一番多いのはサインです。サインはなくても売れますが、ある方がはるかに有利です。作品鑑賞向けに展示する日本と違い、作品購入向けのヨーロッパでは、資産価値の担保でサインは大事になります。最善を尽くすため、絵に収まりのよいサインを用意してもらいます。

次に多いのは、カメラ撮影した絵画のプリント範囲調整です。少しある裁断しろを計算に入れ、一歩前に出た絵を狙います。この時に撮影の救済が必要になります。一部切れているとか、傾いて写っている場合の補正。同時にピクセルのロンダリングも。

見るだけの展覧会ならどう作っても済みますが、買う展覧会ではトンデモ絵図であれ、買える範囲に入れる必要があります。会場の外でも、アートが多く売られている市だから。買う側にその他大勢に映らないよう、編集で細工をこらすことがあります。
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|05-28|ジクレー版画物語||TOP↑
最初は一攫千金や一発で元を取ろうと、力んだ体験を思い出します。しかし10号絵画を、ドイツで希望価格3000ユーロ(36万円)とすればいけるか。日本の画廊でよくある価格ですが、ドイツでは新人の100号並みだから、難しいことがやがてわかります。

売買が日本より盛んであると同時に、作品が充実した堅い市場でもあるから、価格相場は下がっていて買い手市場ぎみだからです。ローンを組んでまで買う日本と違い、ドイツでは焦って買う必要はそうありません。

相手にすれば、チャンスは何度もあるわけです。アートに正価はなく内容しだいで買値はピンキリとはいえ、作品の量も質も豊富な市場では、知られない作者がとれる価格レンジに限度もあります。

日独の相場の差どおりに下げると、日本としては貴重な代表作が惜しい。そこで惜しくない作品を選ぶと、ベストでなくなる。別問題として、傑作が手元にないなら出すものがなくなるし。これらの難題をまとめて解決するために、ジクレー版画で作戦を組み直しました。

ジクレー版画で、展覧会の目的も変化します。売る目的が前面に来ます。原画と違い惜しまなくてよいし。売り物のつもりでない作品さえ、商品化の視点で考え直せます。幸い、編集や用紙選びで味付けも変えられるし。

相手の予算内に収まる利点と引き換えに、一発当てるロマンは引っ込むでしょう。夢から現実へ。必然的に手数を打って次につなぐ作戦となります。こうして、リサーチして補強しつつ前進するのが、現実に合うと判断しています。その成果は少数精鋭展につながるようにします。
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|05-24|ジクレー版画物語||TOP↑
ジクレーとは、原画を撮影しインク式プリンターで刷った版画作品です。プリンターとプレス機は同じ性質のものです。この方法が昔あれば、喜んだ画家はムンクでしょう。彼は後にあの『叫び』を自分で木版画に彫り直し、複製して売りました。

「ジクレー制作は未経験だし、普通に原画を展示したい」という希望も聞きます。前はその普通どうりにやっていましたが、現地で通用しにくいとわかり変更しました。原画だと作品内容ではなく、値段が通用しなかったのです。原因は内外価格差です。

たとえば音楽CD。一昔前に国内盤は一枚3000円でしたが、それを香港に輸出すると現地価格1800円でした。裏を知った日本のリスナーは逆輸入盤を買い始め、国内メーカーが一定期間逆輸入禁止にしました。あの頃のアメリカでは、旧譜CDが1000円程度。

日本のみ高額なのは美術も同様で、日本の画家が外国デビューした時、高くて売れないか、安売りを余儀なくされます。現に何度も売れた画家は、ぐっと低い希望価格を書いていました。これだともったいなくて自己A級作を送れず、B級作で妥協したり。最高作が大作だとお手上げ。

しかも、美術展の目的にも内外差があります。日本は見物が目的で、ヨーロッパは売買が目的。非売品相当の高値だと、相手の関心さえスルーしやすい。それほど、現地では世界のアートが集まり、国際市場化しています。売買総量も日本よりはるかに多く、価格破壊しています。

ジクレー化の読みは当たり、売れる作品数は増えました。売れない理由は値段かも知れないという迷いは消え、作風の嗜好や完成度などに課題を絞り込めます。原画展の場は、別ステージで用意します。
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|05-21|ジクレー版画物語||TOP↑
電子出版の未来が、不透明だそうです。紙の本へ戻る動きがあり、原因は紙と電子でメリットとデメリットが均衡し始めたからでしょう。移行期によくある一時的な乱れにみえますが、電子へ移行しきらない不安もあります。

日本は2013年には、電子出版化が遅れていると言われました。2014年になると、日本は遅れておらずアメリカ並みに普及しているという情報。その2014年に、アメリカで紙の本の復活が起きたという話題がありました。

紙出版から電子に替える最大の変化は、見るのがパソコンやスマホ画面に変わること。が、問題が複雑なのは、著者がセルフ出版できる点です。小説やエッセーなど活字だけの場合、デジタルフォーマットに入れて五千円という代行業もあります。企画出版社の出番が減ります。

著者にとって、ボツにされず検閲されず、書きたいことが書けます。ブームの波と無関係に出版できるし絶版もなく。広き門だから内容の玉石混交と引き換えに、表現の自由は謳歌できます。実際には電子出版社が点検して発行停止し、もめたりもしますが。特に盗作とエロ系で、公序良俗はやはり守られます。

従来の自費出版で三百万円かかった美術図版や画集も、電子なら合理化分と自前分は下がります。ただし画質がサイト相当だから、見る側にお宝への愛着はないし、それならと画質を超HDにすると読者に使用される恐れも。印刷して友人に配られたり。将来も電子化されない紙の写真集は、プレミア商品になると予想されます。

1982年に出た音楽CDは4300円もして買う人はわずかで、しかしレコード時代は終わりで、大勢がどちらも買わない空白の年月が生じました。当時の新人CDは今も再発が少なめ。本が紙と電子の半々に分かれると、立ち読みでつなぐ人が増え、だからか電子には定額読み放題があります。
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|05-18|アート本出版作戦||TOP↑
とりあえずお試しで出品する初回から、作品決めの段で「こうした方がよいかも知れません」と、私案を加えておくことも増えました。大半は、作風の彼岸となる完成度を高めようという方向です。

いうなれば芸術度を高める方向ですが、それが商業主義とぶつかるような混濁はなかったようです。映画にたとえれば、社会問題を告発するシリアス路線を、ファミリー向け娯楽作品へとまとめ直すようなことは、やはり不要なのです。

というのは、美術は一点売れば一応は済むし、映画のように万人向けの集客力による興行成績の競争は不要で、最大公約数的なカバーは考えません。芸術性を下げて商業性を高めるという、妥協的な引き換えの発想はいらない理屈です。ポピュラリティーを加える量が小さくてよい。

参加希望者の作品は、もっと商業方向へ引っ張っても創造性は損ねないと考えています。言い替えれば、独り合点のマイナス面を持つ作品が、国内に多いということかも知れません。そのマイナス面は、ほとんどの場合で何かの不足です。過剰ではなく不足の方。

不足しやすいのは簡単に言えば見せ場で、音楽で言うサビの盛り上がりが抜けている作品が多いように感じます。これは国内の空気のごとき忖度を受け、目立たない地味な方向へ引っ張られるからではないかと。

「その絵はだめでこっちがよい」と日本で誰かが偉そうに言う場合、必ず主張が薄い作品が推奨されます。濃い作品をすすめるケースは皆無といえるほど。薄味にする説教がまた始まったかと。こうした間違った意向によって欠けた何かを、逆の価値観の外国向けに修整することが増えます。
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|05-14|作家方針の工夫||TOP↑
外国人が日本へ来て知った驚きの風習で、三本の指に入るのは「おじぎ」だそうです。ショップでも街中でも仕事の打ち合わせでも、ひんぱんにおじぎされてびっくりという。日本のおじぎに女性型と男性型があるつもりでいたら、前者は接客で後者は礼儀のようです。

女性的な接客型はへりくだりだから、目上へのリスペクトの意味で体を小さく見せます。肩幅を狭め、身体の最大幅も小さくし、前から見た面積を減らします。具体的には手の位置を脚部まで下げることで、腕の付け根を低くして「なで肩」に見せます。

手の位置が高いと正反対の「いかり肩」になるから、そうならないよう手を胴体よりも下に置きます。明治15年発行の『小学女礼式』のさし絵がこれで、手が大腿部にあり、連動して自然な前傾姿勢です。それに対し、男性的な礼儀のおじぎは、手が前ではなく横にあります。

覚えている方も多いでしょうが、小学校の指導でズボン足の側面にある縫い目に中指が来るあれです。つまり普通に起立したまま、体を前傾する。だから「なで肩」ぎみでありながらも、肩幅はそれほど狭まりません。それもあって男性的に見えるわけです。

マンウォッチングの人間行動心理学で解釈すると、低い両手もまた戦わない意思表示でしょう。「どうもどうも」とやるおじぎは、会釈の機能以上に丸腰のしるしだったのでしょう。手裏剣や毒針も手の内にないと。

来日した外国人は周囲のおじぎ攻めに、おじぎで応じてしまうそうです。再びおじぎが返る無限ループが困るという。変なのと思いつつ、これが日本だと楽しい人も多いらしく。日本の万物は、おじぎの精神で築かれている気もします。普段から前かがみの人が多いのも、そのせいなのかも。
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|05-10|世界に伝えたい日本の奥義||TOP↑
日本生まれの日本人が英語で業務を行うよう、方針変更した国内企業が複数ありました。人、物、金の行き来が自由で、国境なきグローバル時代に対応させる目的。英語圏の国が世界制覇する前提の奇策でした。

当面の結果は業績がやはり落ちています。一般に母国語で仕事をすすめれば、きめ細かく伸び伸びできる利点があります。日本語の場合は、言語本来の精度の差で独自のアイデアや技術を過去に得てきたと、再評価もできるでしょう。

日本語には、声色の脚色なしに豊富な言い換えバリエーションで、細かく表現できる容量があります。「わびさび」「もったいない」「微妙」「テキトー」とか。その多彩さを指して、最も難しい言語だという定評があります。ひらがなとカタカナの書き分けもそう。

逆にその微妙さに着目して、日本語を学ぶ外国人が意外に増加中だそうです。新しいきっかけは、日本語を外国の視点で分析したマニュアルだそうです。日本語は欧米語より文法が簡単で、習得は楽だという意外な分析になっていました。

「てにをは」の助詞は重大だとしても、抜けても伝わる場合も多い。母音が英語の15~30個に対して5個だから、なまっても意味は変わらない上に、冠詞がない気楽さもあります。「ワタスィー、キタ、ニポン、ハジメーテ」で伝わる。もっと神経質な言語だと思っていたのが盲点。

かつて日本が捨てて外国が拾ったものに、「団体主義」がありました。不況の90年代に、企業が能力主義で個人を対立させた自己責任ブームの頃、欧米企業が終身雇用的なチーム結束を導入し、国際競争力を上げたケース。浮世絵の価値を先に外国が知ったのと、ちょっと似て。
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|05-08|世界に伝えたい日本の奥義||TOP↑
作家サイト制作ワークショップの準備で、サイトフォーマットを改造中です。従来と基本構造は同じですが、ある部分の遊び要素を拡張した付加価値バージョンといえるものです。

サイト(ホームページ)づくりの心配のひとつは、時代遅れになる早さです。インターネットの正体は電話用の信号線にすぎず、WWWの仕様を国際管理団体が決めて機能しています。サイトづくりのガイドラインも毎年更新され、既存サイトは古びさせられてしまいます。

そうした仕様の流れとは別に、時代感覚の流行もあります。何年か前の大流行は、FLASHプログラムを使った自動プレゼンテーションでした。トップページにビデオが流れたり、何枚かの写真が切り替わるあれ。

それすらすでに、じれったさを読者は感じるようです。ネット閲覧の時間節約志向も高まり、オートアクションがじゃま扱いされやすい現状です。

サイトを徐々に増改築すれば延命できそうに思えますが、現実はコストと手間がかかります。時間がたつと、制作者も内部構造を忘れるし。古びたサイトを当分がまんして、いつか建て替えるのがほとんど。だからネットに、廃屋状態の古サイトや放置ブログが多くあります。

当作家サイトはできるだけ古びないように、手作り感のあるアナログ風レイアウトです。最新式と言わない、80年代エディトリアルデザインの応用。
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|05-05|作家サイト作戦||TOP↑
大型連休は行楽日和ですが、高速道路のサービスエリア(SA)のトイレで手を洗う時に、一瞬迷うのは水道の蛇口です。レバーを回す手動もあれば、手をかざすだけの自動もあります。問題は、レバーを下げると水が出るタイプと、レバーを上げると出るタイプです。

当然ながら水は下へと落ちるので、レバーを下げると出るならイメージが合致します。逆に上げると出るなら、人間の感覚の道理、人間工学にさからっているからミスを誘います。水を止めようとしたら、逆にジャーと激しく出たりして。鏡に映した紙に絵をかく難しさと似ています。

問題はこの手の人間工学無視を、よく売れている車で行っている点です。前にこちらでAT車のペダル踏み間違いが起きる主因を世界で初めて詳細に記し、芸術の本に加えて出版しました。ところが足ペダルとは別に、手でギアを入れ間違う新しい失敗事例が日本で増えています。

事故を起こした車のギアは、レバーを前へ押し込むと車がバックし、レバーを後へ引くと車が前進するという、水道蛇口の逆転と似た設計になっていたのです。ユーザーは不思議体験ミュージアムにいるかのように、レバー操作するたびにクイズ解きをやらされます。錯覚すれば病院へ直行。

こうした予想外の作動であっと思わせる遊びは、本来ならアートでやるべきなのに、デザインでやっています。デザイナーとエンジニアは設計ミスだと認識し、意地になってでも動作方向を感覚に一致させるべきでしょう。

日本がMT車ばかりだった頃、AT車を売り込む時に安全性の根拠として、ATレバーのポジション配列が全世界で共通だという説得が出回りました。今は共通になっていません。美術の多様化を喜ばない者たちが、機械操作のデザインでは多様化に入れ込むのは、困った流れです。
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日本現代美術をドイツへ

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