90年代のコンピューターグラフィックス雑誌で、読者のアート作品が掲載された時のこと。未来世界を描いたリアリズム画が、鮮烈な色で目を引きました。「おおー、やっているな」と感じさせる作品。

ところが、一カ月後の号でおわびと訂正が入りました。あの色は編集部の処理ミスなので、本当はこういう色の作品です。ということで再び載せられた絵の渋くて地味なこと。「その色だったら、誰でもやってる普通の絵だ」「昭和の油絵も普通にそんな色だったし」。

想像したのは、一人にあらゆる可能性がありながら、本人自ら削り落としていることがある疑いでした。変に見えた部分を作者が除去して完成度を上げたつもりでも、実は捨てた部分に絵の生命があったとすれば。絵の発言力をそいで、黙らせてどうするのかと。

歴史名作の鮮烈な色に感心することがあります。塗った当時に奇抜に見えるからといって、目になじむ範囲に入るよう修正していたら、長く残らなかったかも知れません。当時「ココがだめ」の部分が、後世「ココがいい」に変わった。変に浮いた突き出しへの対処が分岐点となって。

芸術は、精進の末に到達する遠い境地というより、むしろ日常的な選択眼の問題なのかも。手が作る以上に、目が選ぶ。途中でヒョイと達成していながら、目に余ってヒョイヒョイ消して回っている疑いです。手が飛躍しても、目が取り締まって骨抜きにしている疑い。
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