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2019/05/25

イギリスのメイ首相の辞任とEUとドイツの未来

サッチャー首相に続く二人目の女性である、イギリスのメイ首相が辞任しました。イギリスがEUから脱退するブレグジットが不調に終わった責任で、追い出されたかたちです。イギリスでは、メイ首相への評価は低くなっています。

日本では、メイ首相にお疲れ様という同情と、イギリス国民はアホで身勝手という意見が圧倒的に多い。日本の国際認識の空白部分でしょう。ひとつは、俗流解釈で済ませた日本語情報の受け売りもあるでしょう。争点を人種のあつれきで説明した報道も多かったから。

イギリスが取り返したいのは民主主義と自治権です。自治権のうち、日本が絶対的に有利な通貨発行権は、フランスやイタリアにはなくとも、イギリスはEUに属しながら特待生としてポンドを使っています。しかもイギリスの政府負債は、日本と同じ絶対安泰な自国通貨建てです(日本の借金1100兆円が破綻しない政府保証)。

日本のメジャーな論調は、イギリス国民の無秩序さを批判しますが、怖い秩序は逆にEU本部です。ベルギーにて、各国政府より強い権限を持ちます。EU国はまるで県相当の地位で、国民の総意で国政を変えられません。フランスやイタリアが国の傾きを修正できない苦悩が、日本人の理解しがたい部分です。

EUと似るのはソビエト社会主義連邦共和国のクレムリンか、中華人民共和国共産党がすぐ浮かびます。全体主義国へ向かう流れに、イギリスの一部があわてました。日本では組織に入れば保護される前提ですが、国際社会ではカモは補食されます。団体とは餌の狩猟場でもあり。

サッチャー以後の世界は国際金融が特権を持つグローバリズム主導で、EUはさしずめ欧州人民共和国か。メイ首相はグローバリズム派ゆえEU側寄りで、自治権奪還を望む議員たちが怒り出しました。次はイタリアの番と言われ、平成日本の失策から学んでいるところ。
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2019/03/24

イギリスがEUを出るブレグジットの動機を理解しにくい日本

日本の報道による国際政治の切り口は今も、「世界の安定をレイシストたちが壊し始めた」です。壊し屋のボスはアメリカのトランプ大統領で、キーワードは人種差別だという。この3月はイギリスのEU脱退期限です。日本にとってEUはパラダイスで、イギリスをトランプ並みの身勝手とみています。

日本の目に映るEUは、フランスとドイツを仲間にして、戦争を永久になくすロック機構でした。このロック機構は自治権まで返上するルールなので、往年の名士国が次々と傾いているのが現状です。そこを日本では理解しにくい。水道への外資参入など、日本も自治を捨て始めたのに自覚がない。

EUの実験でわかったのは、国民性が違う国は共通ルールを少なく絞るほど安定する教訓です。ハンデを壊すTPPと同じで、旧ソヴィエト連邦に似てきました。たとえば移民難民が欲しい国といらない国はまちまちで当然で、逆に一律は不合理です。一律でないことを多様化と呼びます。多様化の見本はアートです。

EUは一律の共通通貨ユーロを使い、その通貨発行権はスーパーステート(超帝国)が独占します。スーパーステートという、今思いついた怪しい造語の理解しやすいたとえは、中華人民共和国の構造でしょう。

一例として日本国は最上位の組織であり、中に国民がいて、選挙で選ばれた代議員が集まった特殊法人たる政府が存在します。島国はシンプル。ところが隣国は全く違い、中華人民共和国共産党が最上位で、その下に中華人民共和国というエリアが存在します。管理下のエリアは、植民地方式に似て拡張します。

同様にEU本部が管理するEU国は、県の地位。県は紙幣も出せず。どこでも住めるルールだから、東欧の貧困家庭がイギリスに殺到し、義務教育が行き詰まり金持ちが去る現状。イギリスは貧困国転落を予感し、元の民主主義へ戻して、独立国として日米中露と関係したい。キーワードは人種差別ではなく自治権です。
2019/01/02

美術展覧会は海外の方が楽しくやりがいがあるのはなぜ

日本で開催される大規模な展覧会の大半が、公募コンテスト方式です。その最大の特徴は、審査員が取捨して当落を決める点。市民に見せるべき作品を通し、見せるべきでない作品を除去します。審査員が嫌いな作品タイプは展示から外れる。

日本人がそれを当たり前と思っているのは、「正しい美術」と「間違った美術」がある前提と、その二つを上位の人が仕分けしてくれる期待があるからです。一方、外国でコンテストが敬遠される理由は、現代のゴッホが除去される仕組みだから。

除去してもよいと日本で考えるのは、芸術が苦手だからです。どうせ作品を見ても違いがわからないから、優れ物と劣り物を先に分別してくれたら、僕らは安心して美術展が楽しめるという。ゴッホは子孫にまかせる。優れ物は上が決めて下に教えれば済み、下の立場で価値を決めてはだめ。市民は上からの指示を待つだけ。

さて問題は、アーティストにとっての効用です。ある画家が異なる作風の二種類を出して、一方が当選し一方が落選したとします。その画家は賞罰で指導を受けたかたちで、見ようによっては調教される犬やイルカのような扱いです。

とはいえ、芸を覚えるプロセスのどこかに審査する評価者がいてくれないと、制作力アップが見込めないのも事実。そこで日本以外では、審査員を一般市民に設定しています。市民は作品を買いはしても、展示前に除去するまではやらない。結果は展示即売の方式となり、いわばアートの豊洲市場です。

豊洲市場に見学者より購入者が多いように、世界の美術展覧会は購入者向けの市場です。買う立場にとっては物をよく見せる飾りつけは不要で、床にゴロゴロ置いてもらえば選んで買うから。会場をキラキラに美化した費用を、画家たちの売り上げから没収する必要もなく。
2018/11/30

外国で開催される美術展には落選の失格がない

日本とドイツの美術展の大きい違いを、改めて簡単に述べます。まず、知らない美術家同士のミックス団体展は、日本ではほぼ全てが公募コンテストです。制作競技会であり、当選と受賞の発表会です。採点は審査員。

外国では全く異なり、多くがアートフェア形式です。販売会の意味です。市場に売り物を出してお客と文化交流します。文化交流とは見せるだけでなく、店の意味です。外国では展覧会は売店です。採点は市民。

公募コンテストでは落選した美術家は失格して展覧会に参加できず、審査料が戻らず終了。対するアートフェアには落選の概念がなく、必ず展示されます。スタッフは公正な立会人などではなく、出品作をセールスする画商です。

アートフェアでは、この作品は人々に見せちゃだめという道徳が無用だから、作品づくりの尺度も異なります。美術家にとって、審査の関門ではばまれることはありません。具象画壇の公募展に抽象作品を出して、会派の意にそぐわないからと懲罰的に落選させられたりも起きません。

だから我々のドイツ展示でも、日本の公募展なら同じ場所に並ぶことのない、異種作品同士が隣り合います。出品者は、自分の作風が許される募集組織なのかを調べたり、対立抗争の渦中で締め出されたりの心配がいらないわけです。

現地の市民は世界の奇抜な作品を見慣れ買い慣れているから、斬新すぎるとか理解できないと怒り出したりもなく、「おもろい」「珍しい」「日本的」などと次々と判断します。コンテストの審査員は採点しても買いませんが、市民は採点して買うので、どの部分のハードルが高いかも日独で異なります。
2018/11/05

日本よりもドイツの美術展の方が会場が雑なのはなぜ

日本国内にもアートフェアがあり、参加した不満に作品が売れてとられる上納金の高さがあるそうです。それは理由があります。話は回り道して、ドイツ展企画の後で「よかった」の声は、参加者全員とは限りません。あれっと感じるのは、会場が思ったより雑な点です。

日本の美術展は、会場を白く整えたピュアな雰囲気が多い。関係ない備品類を白幕で隠し、気が散らない空間にします。冠婚葬祭の場と同じ。対してドイツでは殺風景な室内も多く、ざっくばらんな普段着感覚や即席仕立てが意外にあります。日本はすっきり清潔、ドイツはごちゃごちゃ。

日本のイベント会場は、美化と雰囲気づくりを重視します。これが箱物行政など、器の高級化に熱が入る伝統ともつながるでしょう。場をきれいに整えた付加価値的な費用を、売れて気をよくした美術家へ追徴するわけです。

日本のアートフェア主催団体は、作品売り上げの5割とることもあるという。だから画商は参戦が困難です。一方、ドイツのアートフェアには主催団体への上納がありません。最初の場所代だけ払えば終わり。売り上げの2~3割を画商がとり、美術家は自宅にいても7~8割とるというように、出品側だけで山分け。

ドイツで会場美化が手抜きされるのは、現代アートの売買が盛んだからでしょう。お客は買い物が目的だから、場所が執務室でも丸太小屋でも草原でも、作品の中味を注視するのに慣れています。欲しいのは展覧会場の雰囲気ではなく作品。美術を信じている国だからか。

ドイツで器が立派だと、作品価格に転嫁されている心配がお客に起きるでしょう。日本なら避ける粗末な場でもドイツなら売れるから、古建築を廃墟状態で活用するイベント会社が各地にあるほど。当然我々も空気を読み、買える範囲に作品を入れて展覧会を完結させます。
2018/10/06

2020東京オリンピックのボランティア参加とドイツ

22カ月後に迫った2020東京オリンピックは、運営スタッフをボランティアで募っています。無料奉仕の予定が日給千円に変わり、しかしこの安さはタダ働き批判をかわすアリバイ同然で、限りなく値切りたい主催側の意向と受け取られています。関係者が利益拡大するため。

このボランティアの誘い文句で多いのは、「世界の人とつながる」「生涯の記念になる」「運営に関わった誇り」「外国語の訓練になる」「後の就職面接で有利になる」「有名選手の演技を無料で見られる」などなど。

「そんなに遊んでいられる仕事なの?」という疑問はさておき、ボランティアでなくアルバイトにすべきとの意見も多いようです。オリンピックは国民体育大会と異なり、民間のショービジネス興行としてフェアと呼ぶべき商活動だから。

民営路線を強めたのは、1984ロサンゼルス五輪でした。アマチュア大会を改めプロスポーツを集めるイベントに転向し、サーカス団に似た興行です。2020東京五輪はスポーツの秋を避け、セミが鳴く真夏に行う予定で、アメリカのプロスポーツの夏休み期間にはめ込む取り引きです。

1964東京五輪のスタジアムを最近急いで取り壊したのは、建設会社との取り引きになっていて、景気刺激策の利点もあるのですが、財政出動すべき場面でスタッフの安報酬で緊縮財政に戻るのは不合理だという、経済面と倫理面の疑問もあります。今のブラック日本国に似合いすぎる問題です。

我々はドイツのジャパン・フェスティバルで、バイトに日給千円でなく時給約千三百円払います。日給は東京五輪の十五倍。珍しい体験を報酬を低く下げる理由とする「やりがい搾取」は日本に非常に多く、人権感覚も違うのかも知れません。
2018/09/16

ドイツのおんぼろ展示場は美術が一般化している証し

ドイツの美術展は、会場がオンボロでも成り立ちます。作品の周囲が乱れてごちゃごちゃしていても平気。場所の体裁が悪くても展覧会場に即仕立ててしまい、皆も慣れていて違和感がありません。美術が一般化している前提があるから、どこでも展覧会場にできる手っ取り早さがあります。

対して日本で美術展を開く場所は、きちんと整っている上で清潔感や格調も期待され、クリーンで透明な場所を用意しなければならないという、手っ取り遅さがついて回ります。だから会場の美化にコストもかかります。

この差の理由として、日本では美術作品のどこに注目すべきかが、個人の中に備わっていない前提が考えられます。見る目が作品に集中できない不慣れへの対処で、白い背景が必要であろうと推論できます。冠婚葬祭のような、雑念を排したおごそかな静かな場所を求める心理。

言い換えれば、作品を置く環境しだいで鑑賞があまりに影響され、曲げられ妨害されやすい実態があります。雰囲気しだいで作品の味が大きく変わるなど、頼りない鑑賞が常態化している疑いです。自分の好きなように見るには遠いという、ひとつの証明でしょう。

ドイツによく見る貸し展示イベント会場は、廃屋のリユースです。リフォームではなく、リユース。壁を塗り直さずボロボロのまま。中古車にたとえれば、外観がかなり凹んだまま板金塗装をやり直さず、赤く錆びた状態のような展示会場です。そこを背景に絵や彫刻を置きます。

ボロボロの壁の絵にはアーティスティックな趣が出て、何だかかっこいい。日本でも1980年代前半、ウオーターフロント再開発のフィッシャーマンズ・ワーフのブームで、古倉庫やロフトの美術展が話題になりました。レンガ壁やアールデコ調が日本にもあった。でも美術が一般化していないから、主役の絵を楽しむ気分は安定せず全滅したようです。
2018/07/09

サッカーのてのひら返しと因果関係

サッカーワールドカップを通して、よく言われた語は「てのひら返し」。その意味は複雑です。観衆が良いと思えば絶賛し、悪いと思えば批判するのは当然だから、その入れ替わりを思想変節の意味で「てのひら返し」と呼んで問題視するのは、何か違うぞと。

西洋美術史上最大の「てのひら返し」は、やはりゴッホで起きたのでしょう。今さらの恥ずかしいまねを消すために、僕らもゴッホを19世紀同様に冷遇しようという解決は、もちろん無意味な秩序維持でしょう。一貫していないことを批判するのは、やはり何か違うぞと。

日本代表サッカーの課題に、チーム強化の目的意識の整理があり、これを長年やらずに今回もやらないのは理由がありそうです。ひとつには、何をどうすれば結果がどうなるかの因果関係がわからない問題です。分析能力との相談になるわけです。

たとえば縦パスでスピードを上げ、前を向いてのシュートは、あれほど苦手だったのに今回できていました。成否は相手も関係するし、偶然のはずみも多分に含まれるから、失敗した部分を直せば未来が開けていくかは不明です。偶然のはずみの最たるものがオウンゴールです。

これは美術展覧会の結果にも言えます。売れた作風に重点を移し、売れ残りは今後廃止すればよいかは、芸術の神でないとわかりません。数回だめでやめたら、ゴッホもなかったわけで。不人気な作品が最も正解なのかも知れないし。

ドイツ代表は過去にない散々な一次リーグ敗退でしたが、同じ監督で次を目指すそうです。偶然起きた成功や失敗を慎重に除外し、データを冷静に分析する専門家集団がいるのでしょう。何ごとにもたまたまの浮き沈みがかなり混じるから、過剰反応には注意がいるということか。
2017/12/01

日本も美術市場を一般化させる工夫が必要では

最近、著書ブログでよく触れるのは、美術の一般化と特殊化です。これが日本に特有のデフレ脱却失敗劇とも関係があります。具体的には、美術家が作品を売る場が少なすぎる問題です。展覧会は山とあれど、売る場は限られる。困窮時に絵や彫刻を売る場が国内にない。

日本の美術が特殊化している根拠は、現代アートフェスティバルを田舎や離島で行う慣習です。1980年代から変化していません。地域文化の創造育成にみえて、実はみやこ落ちした隔離策かも知れない、うがった見方もできます。「うがった」は邪推ではなく隠れ正論の意味です。

先進国のアートフェスティバルは、市街地や生活圏で行います。会場で飲んで食べて鑑賞するのは同じでも、基本的に都市祭であり売買の見本市です。ドイツのフェスティバルもお客は買う作品探しに来ます。見学とは違う。

売買しない展覧会は盛り上がらないから、出品する側の目的も市場に問い換金することです。売るつもりの作者は本気。だから我々も、ドイツの現地市民が買える範囲に作品を入れます。あの手この手で。

一方の日本には市場がないか、あっても限定的です。展覧会は見学会にすぎない。その証拠に、公募美術展覧会の大半は売買禁止のコンテスト展です。売らない展示ばかりが多く、アート市場がさっぱりない現実です。買わない前提で見学する市民は、それほど本気で見ないし。

結果、画家は作品を放出する場がなくプロ化できない。通販も欧米がずっと売れ、それプラス生活圏で美術即売会がひんぱんに開かれるから。差は歴然。あちらには駆け込み、投げ売るマーケットが一応あるから、完全ゴッホ化しにくい。この日独差は、写真アートも同じ状況です。
2017/10/31

アートフェスティバルの目的の内外差

日本のニュース番組で近年話題になった、現代アートフェスティバル。都市の喧噪から離れた郊外、あるいは田舎や離島などに現代アート作品を集めて展示するイベントです。お祭りの見世物と親睦会の目的があります。バーベキューとビールが人気だそう。

それに対して欧米でいうアートフェスティバルは、要するにバザーです。買い物をする市場を開く意味。だから伸び伸びする郊外ではなく、サイフを取りに帰れる日常の距離で行われます。日本の美術祭とドイツの美術祭は、方向性が全く異なります。ドイツでは遠方に隔離せず、家の近所でやるものです。

ジャパン・フェスティバルのように欧米以外のアジア国でも開かれる日本特集や、先輩のジャパン・エキスポも同様に商戦の場です。だから出展者は、日本人以外も混じります。人が集まる場では、売れたが勝ちの論理。

「この作品で驚かせてやるんだ」「話題をさらって新聞に掲載されたい」という目標は、日本の事情です。世界中の美術祭ではその手の戦いではなく、お客に多く高く売ることで社会貢献します。当然我々も、多く高く売れる方向に引率します。親睦会や思い出づくりよりも優先して。

ジャパン・フェスティバル・ベルリンのステージプログラムでは、各国の人たちが日頃の日本文化技芸を披露します。一方でアートの階にはドイツ国内コレクターが買い出しに来て、業界人も回っているとわかってきました。たこ焼きや日本酒の宴の中であっても。

だからここでも、「結果は参加者の力しだいです」なんて話はやりません。「こうやれば反応は良かった、これだと悪かった、この方向なら伸びそう、こういう改善もあり得る」と、売れる確率を上げる話し合いが多くなります。
2017/10/04

変転が速い国際新興都市ベルリン

昔、後輩のHが「東ドイツは理想の国だ」と言い出したのです。首都東ベルリンは幸福に満ちていると言い張ります。「壁で分断された冷戦のベルリンがか?」とたずねると、「壁も冷戦も全部ウソでそんなものはなくて、自由に行き来できる楽園なのが現実だ」と。こちらが絶句すると、Hは真剣で得意げな顔。

Hは自力の思考ではなく、おそらく何かの本を読んで思想を固めたと思われ、冷戦時代のソ連筋からのプロパガンダを信じたのでしょう。当時テレビニュースによく映っていたベルリンの壁を、実在しない架空だと言い出すとは。ジェーンエア年鑑などもあるのに、洗脳される若者の怖さを感じたほど。

ベルリンの壁は1989年に東ベルリン市当局の伝達ミスで急展開し、西へ侵入する東市民を放置する命令が東から出て運命の扉。背景はもちろんソ連初で最後の大統領ゴルバチョフでした。壁はハンマーや削岩機で壊され、翌年統一ドイツに戻ったのです。東ドイツ生まれの女の子が、今はドイツ国首相としてEUを仕切る出世。

この壁のゴタゴタによって、ベルリン市内は今も開発途上都市であり、建設工事のクレーンや道路の掘削があちこちでみられます。首都でありながらも主要企業は他市へ避難していたので、ベルリン市は総合アート情報都市を新たに目指すことに。

その街づくりのダイナミズムもあってか、変化のテンポが速い。今日あるものが明日はないかもというのは、展示場所もそうです。ある場所で10回展示会を開く予定で始めたら、9回目の直後になくなってしまい、作品が今もベルリンにあります。

今あるものを今すぐ活用しないと、流れに乗れないのです。来年はもっとよくなるだろうと期待すると、国際都市だけに他国へ持って行かれたりして。混沌で生じる番狂わせを、アートコレクターも狙っていて。日本からもベルリンの街づくりに加わりつつ、運を引き寄せる余地がある今です。
2017/08/18

日本とドイツのソーセージの話題

ネタ半分と思うのですが、ドイツ人が魚ソーセージを思いついたおもしろ動画を見ました。ドイツ国内に動物肉のソーセージはあっても、魚肉のソーセージはない。なぜ世の中に魚をソーセージにするアイデアがないのかという、ドイツ人からの呼びかけ。

そこで世界で初めて、我々ドイツが開発しようではないかという提案です。やがて誰かが日本に魚のソーセージが1960年代から存在すると発言し、やっぱり日本かということになり、一度見てみたいという話に向かったとか。

1960年代の日本で売られたのは、魚肉ソーセージと魚肉ハムばかりでした。メーカーは水産加工業。誰もが知るのが、長さ20センチで直径が指ほどの、オレンジ色のビニールで包んだ、中味がピンク色のあれ。昔の学校給食に出て、ビニールをむくコツが極意になっていたあれ。

お中元用ハムの詰め合わせは、それを太くしたようなもので、今でもすたれずに続いています。断面が長円形の、ハンバーグ名の商品もあります。それどころか赤と白のウインナーソーセージも、長く魚肉が主体でした。よりポークらしい味なら、フランクフルトソーセージがあった程度が1970年代まで。

日本でソーセージの概念が大変化したのは、1980年代のポークブームでした。カリッとくる食感とジューシー、強い香りの本格派が急に現れました。あらびきや黒豚などの広告合戦。最初の印象は、あぶらっこい。従来の淡白な味から慣れを要した過渡期を経て、ついに一般化しました。

日本で魚肉ソーセージが開発されたのは、豚肉ソーセージが高価だったからで、社会はまだ貧しかった。それが動物的なきつい風味の敬遠と歩調を合わせたような。日本に昔からあるちくわとかまぼこも、日本型ソーセージだと動画にありました。確かに高級かまぼこは高価。
2017/07/08

外国で展示して好評なのに売れない場合は?

企画の準備で重点を置くのは、売れる傾向と対策です。しかし作品を売る意識は、日本にいるとあまり感じないものです。一因は、日本の団体展の多くが公募コンテストだから。

審査という関門が頭にあるから、誰に向かって絵をかくかの自由度はやはり制限され、お客の存在がかすんでいます。日本の新作アート全般が何となく帯びる固い雰囲気は、いうなれば受験生の態度と似たものだったのです。しかも、コンテストでは作品を売らないのが普通です。販売禁止。

ドイツで売れている作品には、概して「自分の腕を試す」式とは全く違う自由感があります。審査員が狭い人間かも知れない想定におびえる気配がただよわず、自分の声を自然に出せている伸び伸び感が強い。何かに忠実たろうとする萎縮が感じられません。そういうのがドイツで売れる。

一般的には、日本の新しい作品はどこかに「資格試験の実技」「技能検定」的な雰囲気をかもしていることは、ドイツへ持ち込むとよくわかります。アートが民主化、民営化、そして一般化している欧米の目にとっては、統制や教条が感じられる作品でしょう。ジャパニーズ・リクルート・アート。

日本では個展やグループ展も、仲間内の顔見せ的な発表会が多いようです。目の保養や心の糧とする目的の鑑賞会であり、関わりのない他人が所有目的で偵察に来る前提じゃない。そこがドイツは異なり、市民が思い思いにチェックしてゲットする一般市場になっています。

ドイツで好評ではありながら売れるに至らなかった作品は、そこを出発点に改良を考えます。その回は早く忘れて次に行こうと焦るのをやめて、作品をどういじれば売れるかを一歩ずつ検証する方が近道です。この作業を企画化するために実験を始めています。
2017/07/01

現代アートが一般化しないで特殊化している日本

この頃こちらでよく使う語に、一般化と特殊化があります。たとえば、日本でよく話題になった現代アートフェスティバルです。過疎の地方で、アートを核としたまちづくりイベント。テレビやラジオのトレンド特集ニュースになり、現代アートが街を復興する推進力となる話題でした。

しかし冷静に考えると、ニュースの文脈は地方都市の衰退と、対する東京一極集中です。人類史上最大の都市圏トーキョーにヒト・モノ・カネを集結させる政策で、当然の成り行きでさびれゆく地方郡部が生じ、奥の手として現代アートとタッグを組んだ印象です。現代アートのUターン?。

これを特殊化と呼ぶ根拠は、日本国内で現代美術は今も特別ゲスト扱いされ、たとえば1960年代の「読売アンデパンダン展」から地位が上がっていない点です。現代アートが最近になって台頭してきたみたいなマスコミ扱いですが、半世紀前の現代美術の方が盛り上がっていました。

現代アートは欧米では一般化していて、日本では特殊化しています。日本では日々の暮らしの中に現代アートはなく、あくまでもスペシャルイベントでの出番です。家庭などの身辺に現代作品は見当たらず、遠くへ出向いて出会える棲み分けです。要は、珍しい出し物という地位のままなのです。

街づくりにアートを使った行政と民間イベントは、実はバブルより前の1980年代に大流行しました。雑誌『ブルータス』の頃。鉄道駅前に銅像やステンレス彫刻をどんどん置いた、いわゆる「彫刻のあるまちづくり」もその一環でした。後に彫刻は撤去され、今は減っていますが。

最近の現代アートが過疎の町へ集まるのは、その昔アートの街づくり推進に関わった者からみて、「実を結ばずまたスタートに戻っている」という話です。現代美術は、昔も今もニューカマーのまま。あの頃より都落ちして、地方へ追いやられたみたい。これが特殊化です。ドイツでは現代アートは都市の日常に溶け込み、田舎に隔離されないのに。
2017/06/17

ドイツにも伝統具象と現代抽象の分断はあるのか

日本の美術界の特徴に、伝統具象と現代抽象の分離があります。「伝統的な具象画壇」と「現代アート界」に大きく二分されています。思想も尺度も人脈もショップも、何もかもが異なる別世界で離反。地方美術館のもめごとも多く、現代アートの仕掛け人がクビになったあの事件もこれと関係します。

しかしドイツでは、そういう分け方は特にないようです。日本なら「現代美術展」とタイトルをつける行事も、ドイツでは単に「美術展」です。ドイツで新作は全て現代美術なので、あえて現代作品だと呼ぶ必要がないから。日本の会社求人案内に「現代人求む」と書かないのと同じこと。

つまり日本で現代美術は特殊化しています。一般の新作美術とは別枠に分けられています。一般の新作美術とは、印象派や野獣派の延長にある近代具象画壇と、地域の油絵グループやスケッチデッサン画サークルなど、おなじみの社交場です。

日本のそのゾーンを現代美術と呼ぶと調和せず、昭和歌謡をロックと呼ぶみたいなミスマッチでしょう。日本の現代美術は現代音楽や現代バレエと同じで、理解しがたい意味も込めて呼ばれます。これが特殊化。「僕は現代美術を作っています」と自己紹介すれば、変な人に思われそうな社会。それが日本。

「ドイツで美術展をやります」と日本で呼びかけると、カテゴリーのミスマッチを心配する質問者がやはり現れます。国際的な場の現代アート展に、自分のような古来の具象画は参加資格があるのかという不安が、今も残っているのです。

ドイツでは全てが現代美術となり、具象画壇かは無関係です。日本とは違い派閥を超えた光景になります。プリントアート企画では、日本的なモチーフを選ぶことが増えます。縮小するとサブカル風味も帯び、見た目が日本画に近づき、現地でどちらかといえば売れる方です。
2017/06/04

デュッセルドルフのジャパン・デーを調べています

デュッセルドルフ市の「ジャパン・デー」(ドイツ語=ヤーパン・ターク)は、ジャパン・フェスティバル・ベルリンより前からあったそうで、最近参加者から教えてもらいました。今年2017年は5月20日開催でした。

ジャパン・デーの主な出し物は、コスプレと打ち上げ花火だそうです。百万人集まる花火が目立って、観客からみて屋内会場の規模バランスに課題があり、人混みになりすぎて行きたくてもしんどい声も多いそうな。

手頃な見本市であるジャパン・フェスティバルよりも市民祭化し、舞台アトラクション以外の出店はバリエーションが足りない悩みがあるそうです。アート出展エントリーの呼びかけが日本に来ていますが、日本から出展しにくい理由は景気の内外差です。

日本だけが25年目のデフレ不況で一貫し、美術家が撤退と廃業する不安が続いて、もう活動停止しているケースもみられます。そのため日本から出品するモチベーションは、投資よりも資金回収する意識に向かいがち。元が取れないなら参加しないという。ベルリンから離れるほど、参加費が上がる悩みも効いてきます。

ちなみに、ジャパン・フェスティバル・ベルリン企画ではフェア参加の考え方を変え、見せ作品から売る作品へ、作品集合から作家育成へと方向性を変えています。日本美術販売プロギャラリー的なやり方は、仮にジャパン・デーに拡大しても続けることにします。

ジャパン・フェスティバル・ベルリンでは、たまに作品販売で黒字化して参加費を取り返す強豪が現れましたが、ジャパン・デーでは一日限りなので、むしろ作家宣伝に投資する方向が強まる気がします。よその市なので事情がわからず、情報を集めています。
2016/12/24

先進文明国を襲うテロの反動

トラック暴走テロの背景をさかのぼれば、イスラエル建国に始まり、アフガニスタン戦争とイラク戦争による、中東の怨念の連鎖があります。十字軍もあったでしょう。もっとも、テロ国家の旗揚げは原因ではなく結果です。

テロ実行のハードルを下げたのは、ゆるい国境と移民難民の受け入れでしょう。人種差別をなくそうとする理想主義と、人類は皆わかり合えるとの博愛主義で、盟主国たちは難民を大勢迎えました。しかし、相手も博愛主義で話のわかる人で、郷に従い価値観を共有するとした想定は妄想なのか。出身国では指名手配犯の逃亡や、送られた工作員もいた結果論。

裏から支えているのは、グローバルスタンダードとされる新自由主義経済です。ベルリンの壁が消えて共産主義が後退し、勝ち残った資本主義は先鋭化し、支配者層のみ潤す方向へカルト化しています。「株主の利益を守る」という耳タコのお題目がそれ。

たとえば日本政府が増収を賃金に回すよう企業へ促すと、経済新聞は増収は株主のものだと社説で釘を刺しました。ドイツでもこうした階級闘争の本音では、企業は安い労働力として移民や難民が欲しいわけです。清掃業務などでも。難民受け入れは、実は株主の利益です。博愛は口実で。

日本国内では、特有の文化意識がカウンターとなっています。人は生まれた地で暮らすのが幸福で、流浪の民は無駄に苦労し寿命も縮むとする土着主義です。だから、過去に日本から送り出したからゆきさんやブラジル移民は、今も苦渋で傷心の記憶となっています。

ドイツでも何かをきっかけに国民が次なるヒトラーを求め、ドイツ製トランプならじきに現れるとの予想が出されています。どの国が公式に暴発するかわからない、奇妙なチキンレースをグローバルに興じている現状です。
2016/12/23

ベルリン市内テロ事件の位置

12月19日(日本時間20日朝4時頃)にベルリン市中心部で起こされたテロ事件は、大型トラックを暴走させたものです。隣国ポーランドから盗まれたとされる、かなり大きいトレーラートラック。8年前に日本の秋葉原で起こされた、小型トラックのテロを連想させます。

場所は地図上では、ベルリン中央駅の左下方向です。ブランデンブルク門を起点にすれば、門のすぐ西(旧西ベルリン領側)に広がる森の、反対側の端っこあたりです。Urania Berlinビルから1000メートルほど西で、周囲にベルリン動物園やベルリン工科大学もあり、文京区のような場所に思えます。

現場のカイザー・ヴィルヘルム教会をGoogleマップで3D化すると、ごく近代的なビルに描かれています。実際にはガウディーがつくった教会を思わせる、有機的な意匠の文化財です。当然ながらキリスト教の施設であり、そうした背景を感じさせます。
2016/11/23

海外アートイベント会場でも銃撃の危険はあるのか

日本にいて気づかないのは、銃規制が最も徹底した国のひとつが日本だということ。薬装連発短銃の個人所有は不可能です。単発でも全国50人限りの競技者枠で、銃は警察署に保管します。

日本の平和ぶりを示す好例に、ケネディ大統領暗殺の陰謀説があります。オープンカーの後席の大統領を撃った犯人は、前席の運転手だとする新説です。銀色のハンドガンを撃つ一部始終の動画がネットにありました。

大勢の観衆が見ている中でこっそりと銃口を後に向け、大統領の頭を撃ったオートマチックピストルとやらの正体は、運転手のセットされた髪型が日光で輝いている部分です。しかし主張者は明らかに本気で、発砲すると音と炎と煙とモーメントとにおいが発生することを知らないようす。

たとえば、映画『ダーティーハリー』のSW44マグナムで市販実包(純正火薬量)を撃つと、レストランなら店内の全員の鼓膜が破れるでしょう。無煙火薬でも火と煙がドバッと出て、銃身が跳ね上がり後へ飛び、グリップが弱いと手が滑って銃がねじれつつバクテンしたり、撃鉄が額に刺さる事故も。においが店内に立ちこめて。衆目の中、人知れず撃つのは不可能。

海外では、一般人が銃を持っている確率も上がります。一例は中立国スイスで、よく日本の国会議員が理想の平和国としてたたえた後で黙るのは、スイス方式は全国民が兵士だからです。多くの家庭に自動小銃を配備しています。戦闘訓練する徴兵もあるし(女性は希望者のみ)。

異国で銃の乱射にでも出くわすと、犯人が照準しにくいよう行動する必要があります。それだけではないようで、先日コロンビアを旅行中の大学生が、強盗を追い詰めて撃たれた殺人事件がありました。盗られ用のスマホを別に用意する必要もあるでしょう。
2016/10/14

展覧会の絵画の二段掛け三段掛けは、今の日本でもNGか

美術館批判が日本で流行ったことがあります。発端は、山梨県の美術館がミレーの絵画を買った騒ぎで、一点豪華主義批判が噴出しました。「そんな古物はやめて近年のピカソやミロを買え」という主張も特に出てこなかったのは、抽象がわからなかったからでしょう。

そういう時代に、日本の大型美術展への批判がありました。応募が増えて入選も増えて、絵が二段掛けになってひどいという批判でした。ところがヨーロッパの美術展だと、絵を二段三段に並べるのはよくあります。上だけでなく、床に立て掛けたりも。

二段三段が平気なのは、あっちの展覧会が商品陳列の場だからです。お客の目的はアート散策や心の浄化ではなく、買い物です。絵が目の高さになくても、額がなくても全然平気。品ぞろえが豊富なのはありがたい。

お客は雰囲気や格式を乗り越えて作品をよく見ているから、会場の自由度も高く、ホテルの各室に作品を詰め込んだ展示会もありました。ヨーロッパでは、見るだけで買う物がないのが実は最悪です。

前に、外国展が初めてという参加美術家が、日本と違いすぎるドイツの展示光景に憤慨していました。日本の展覧会は売らない前提で、心休まる静的な場を求めたガラパゴスだから、無理もないことでした。アメリカと違いドイツの美術展では音楽は鳴らないから、日本に近いのですが。