fc2ブログ
2023/07/08

作品を改良する時の原点は常に自分の作品|他人の模倣だと敗退

海外美術展で売れた作品と売れなかった作品は、その場限りの結果論といえます。しかしここでは、統計記録も含めて研究対象にしています。「やっぱりそれが売れたでしょ」「思ったとおりの結果になった」というケースが多いからです。

ただしAさんの作品とBさんの作品の、どちらが売れるかという問題ではなく。売れたBさんの3点のうちこれが売れた、それが事前の想像どおりになる点に注目しています。一作家の作品同士をくらべた完成度に、課題の焦点があるのです。

Aさんが、Bさんの作風との差を参考にする必要はなく、Bさんの中で売れた作品と売れなかった作品の違いが重要なのです。自分の作品同士の上位争いやベスト選定する目として、切磋琢磨の余地が広がっているわけです。

自己ベスト作を展示すれば売れた。ところが第二弾が続かないという壁がよくあります。成功した一作がたとえまぐれでも、そこから発展させれば何とかなるものです。しかし何度作れども下回り、次の快心作が出ない場合もあります。スランプ。

こういう時に、作者が自分一人で考え続けても行き詰まるので、いっそ他人の目で診断した方が早いのです。制作アシスト企画で作戦を用意しています。相手が買わない理由を見つけて除去するアプローチもあります。

資金が余っていない画家にとって一回の展示会は限られた実験機会なので、漫然と作品を送り出さずに個人テーマを立てて攻略を意識した方がよいでしょう。制作し続けるうちに惰性や爛熟に向かい、作品が希薄になることも多いので。
スポンサーサイト



2022/06/19

一回の展示では脈のある作風を判断できない|時の運や偶然もある

作品を展示して売れず、同じ場所で翌年は売れて「やったー」という結果は意外にあります。美術は一作を一点しか販売しないから、結果の統計的なばらつきが大きくなります。時の運や偶然で、お客とのめぐり合わせがどうなるかわからず。

絵はがきのように一作を何十点も持ち込む場合でも、展示会ごとの売れ数のばらつきは大きいわけで、一点限りを置く絵画類では一度展示して残っても、その作風はだめだとしてあきらめるのは早いわけです。

その線で続けるか、それとも作風を変えてしまうか、頭を使い冷静な判断が必要になるでしょう。その回に買われなかった理由が作品内容にあったとしても、何がそれなのかは自己診断で突き止められず、改善方向が逆に走ったりも起きます。

グループ展には大勢のお客が来るから露出度が高くなりますが、お客の関心は分散します。個展でワンマンショーにすれば、今度は来てくれる絶対数が少なくなるから、結局はどちらも回を重ねる必要があります。

それで作品を送り込むこちらの最も堅実な解決法は、作者のベスト作を適切に選ぶことになります。作品のナンバー2相当ではなくナンバー1をズバリ出すことです。なぜなら歴史的巨匠をみても、名作はけっこう一点豪華だからです。つまり生涯の傑作は限られるから、ここでも頭を使います。

歴史的巨匠には「この一点」があり、それがなければ地味に終わっていたかもという疑問もあります。ピカソのように、代表作が10点もある方が例外です。音楽でも出世作が生涯の最高作ということも多く、他人の推薦で扉が開いたケースも多い。
2022/01/13

画家の作品は代えがない|現代アート絵画塾も互いに似ていない

平成中盤以降の日本は、緊縮財政と消費税増税で経済が低落し、各分野と各ゾーンが貧困化しました。平成デフレ不況です。デフレとは物や人の価値が下がり、買うお金の価値が上がった状態です。インフレは好景気ですが、デフレは不景気です。

お金がもったいない、使いたくない、使っても取り返したい衝動が起きたりして。モンスタークレーマーで騒然とした事件は、消費税増税から2年の1999年のこと。注目すべきは物の値打ちが下がる点で、時給換算する命の値段も下がります。

だから平成によく聞いたフレーズは、「代わりならいくらでもいる」でした。人を買い叩く殺し文句が前面に出ます。従業員になりたい者が行列をつくり、いつでもポイ捨てできる人余りなので、個人の権利は落ちました。

こうして社会に入れなかったのが氷河期世代で、日本の技術伝承が切れています。余った人を無視して外国人労働者を増やしたのは、賃下げが狙いでした。これらが新自由主義経済とグローバリズムです。先進国は新自由主義から撤退しつつあり、日本は続けようとしています。

ところでドイツの日本美術展で、スペアがないことを知りました。誰かが撤退すると、似た作風の人はもう現れず空席になります。穴は埋まらず。現代アート絵画塾でも、作品は作者ごとに全く似ていません。多様性は実現しています。他人同士、絵が似ていない時代です。

21世紀美術では、画家の取り替えがきかないようにみえます。同時に、一人一人がニッチな独自作風を生みやすい時代でもあって。追いかける中心的な流行がなく、どんぐりの背くらべが起きず。日本美術のブレイクは近い感触です。
2021/04/07

檄を飛ばす美術作品とは|難しい日本語よりはまだ簡単な美術

「檄を飛ばす」という言葉、この意味に合うのはブログです。檄(げき)とは人を集めたり説明する文書を指し、主張コメントや論説記事が檄に相当するでしょう。新聞社説ふうのブログを書くことが「檄を飛ばす」だといえます。

この語は解釈間違いが広まっています。檄の漢字が激に似ているせいで混同され、「叱咤激励」の意味での誤用が多いそうです。社長が朝礼などで社員を半分叱りつつ励ますような、鼓舞する演説が「檄を飛ばす」だと国民は覚えていて、調査すると8割近くが間違っているとか。

漢字の姿が似ているせいで誤用される言葉はけっこうあります。もう定着して正誤が逆転している一例は独擅場(どくせんじょう)です。漢字も読みも異なる独壇場(どくだんば)が通用してしまっています。

考えてみれば美術作品は、その機能自体が檄を飛ばす存在です。何かを訴え同意を求める意味どおり、アート作品は訴えて賛同者を集めるコミュニケーションツールだともいえます。相手を探しながら世間が認知しうる範囲を調べる、リサーチの面もあるわけです。歴史的に、500年早かった絵画もあります。

同意を求めるとはいっても、わかってもらえるように作ることは少なく、むしろ同意が得られにくく作ってある方が多いでしょう。創造性は斬新さとともに意外性でもあるから、本来はなじみの悪いのが取り柄で、反発を受けるケースがあって普通です。範囲の自由度が高い。

現代アート絵画塾で重要な価値観は、正しい意味で檄を飛ばす以上に、誤用どおりハッパをかけてガツンと衝撃を生む方向です。日本国内で作られるものは、とかくまろやかに整えられ平坦で見どころが減りがちなので、自ずととがったものを意図することが多くなります。
2020/04/27

東京オリンピック延期でアスリートが困窮|一発勝負とオーバーエイジ

日本陸上競技連盟の瀬古利彦理事がちょっと変な話をしても、あまりバッシングが来ないのはなぜか。もちろんおもしろい人という次に、1980モスクワ五輪の日本国不参加を浮かべるからでしょう。瀬古選手が当時メダルの可能性がごく高かったのは確かでした。五輪は8年空きました。

メダル確実だったのに訳ありのてんまつは、日本水泳連盟の古橋廣之進名誉会長も似ていました。戦後の不参加。スポーツ選手は常に複数の運命に翻弄され、年齢のタイミングも含め、たまたまのハプニングにも襲われやすい立場です。

2020東京オリンピックの夏に合わせてきたアスリートは、全く気が気でない困った待機時間になることでしょう。一個のメダルで将来が大違いなのも普通のことで、実力がある選手はこれで人生が極端に左右されるなら、見ている外野も気が重い。高校野球での高3選手も同様です。

1年後に2020東京オリンピックを開催しても、自分のペースで練習できないケースが世界に増えることでしょう。成績が番狂わせになる競技が続出する恐れもまた、気が重い話です。その不安は選手と観客ともに感じているでしょう。

美術では過去の作品は消えないし、特許先取り競争でもないので、過去を振り返る展示で一応救われます。とはいえ新型コロナ不況の中で自粛になるエンタメ系で、美術家は去就を迫られることもあるでしょう。財源論で切り捨てられないよう、まず声をあげることが大事です。たとえば地元国会議員に。

実は絵画制作はマイペース作業にみえて、ブランクで作品ははっきり劣化します。楽器の演奏みたいに。かなりの程度、スポーツと似たトレーニング的な面もあるといえます。こちらも欧州基準で、アートマネージメントを強化していきます。
2019/11/24

海外でモテる作品は意外な基本が大事|デザインの次元でスペース問題

海外での美術展では、作者の魅力で突っ切る場面は減ってきました。作者が現地へ行かないことがほとんどで、お客と顔を合わせて同時代を共感したり、人物の魅力を伝える機会がない前提で考えます。古典作品の紹介と同じ感じになります。

これは、美術家が亡くなると総じて値打ちが落ちる、一般に広く起きる現象の理由にもなっています。今は亡き芸能タレントをテーマにしたテレビ番組が、ごく珍しいのと同じことです。生きているうちが華という面は、芸能に限らず美術にもみられます。

そこも考慮してアート・マネージメント・システムでは、作品自体に絶対的な魅力や取り柄を備えることが目標です。「これ誰が作ったか知らないけど、なかなかおもしろいね」と言われるものを目指します。別に多大な努力を要するほどでもないのですが。

とはいえ一点売るだけで、こんなにあれこれ考えて検討し、修整を重ねたり振り出しに戻すこともあるのかと、驚かれた方もいらっしゃるかも知れません。しかしそれは当初だけです。毎回同じだけ手間がかかるのではなく、やがて手慣れて高速化しますから。

音楽で考えれば、プロはその場でヒョイと即興演奏し、高いパフォーマンスを再現できます。美術も同様に、その場でヒョイと作れてしまうよう、下積み訓練がある程度必要でしょう。おもしろいように自分の絵が描けてしまう境地の、方法確立中はゆっくりでよいし、第一歩に時間をかけてもよいでしょう。

ポツンと残った絵だけを見て、他人が話題にできる、そんな一枚になればよいのですが。その課題は意外なことに、芸術性やらがどうこうという以前に、デザインの次元での基本作法が実は大きいのです。たとえばスペースの埋め方です。
2019/07/28

美術を作り続ける動機は何か?|衝動よりも決定的な神に選ばれた直感

アートを制作する動機は何か。よく聞く俗説は「作る衝動」。それもおそらく正解のひとつで、積み木に触れた子どもが口に入れる時期の後、並べたり積み上げて、未知の形態をつくり出す行動を説明できます。本能の情動みたいなもの。

その時必ずしも「おかあさんの顔をつくろう」とはならず、積み木をかためたり広げたりして、一種の空間デザインを行うことが多いでしょう。近代美術の発展どおりの、具象を崩して抽象化する手順ではなさそうで。

それはよいとして、衝動という短期とは別に、長い年月つくり続けるエネルギー源は何か。それは、自分は特別だという確信かも知れません。自分に他と違う独自性があると気づけば、人類の一代表に選ばれた意識も生じるはず。いわば引っ込みがつかなくなる。音楽ではそうした「選手」の人数は非常に多い。

自分の作品が他と異なり取り替えがきかないなら、自分が手を引けば人類にできたことが小さくなるわけです。人類の遺産に欠けが生じる。たとえわずかでも、既存の範囲から広げる使命を感じる本能でしょう。これは神のさい配というものかも。

しかし作った時に感じよく思える作品は、過去に誰かがやっていたりします。後出しの制作ほど、ゴミに映ってしまう宿命も負うでしょう。ゴッホの時点で、印象派のすき間狙い的な拡張が目立ちます。その最高傑作は結局、子どものかきなぐりみたいになり馬鹿にされた。

企画展示に出る作品にもいえて、見分けがつかないほど似たもの同士は出現せず、互いに拡散しています。しかし国内の鑑賞者の目にはどれも同じに見えるらしく、もっと作品同士の差異を広げたい気は残ります。ちなみに絵をわかるというのは、絵の心がわかることではなく、絵同士の違いがわかること。
2018/04/29

外国展示の作品はどう作ればよい|やりたいことをはっきり完成させる

日本では展覧会は見て楽しむ場で、ヨーロッパ国では買って楽しむ場といえます。買い物だから、壁に並ぶ絵が不ぞろいに傾いていても平気です。額がボロでも、なくても全然平気。雰囲気にひたるより作品内容のチェックだから、脳内ではきれいに見えています。

ドイツで個人に買われた絵は、室内に飾られ眺められます。現地のギャラリストが作品を取り扱う相手も、コレクターなど鑑賞客であり、値上がり狙いの転売目的は少ないようです。

なので買われた作品は、誰かが好みの偶像として個人評価したわけです。これいいだろと、他人に自慢したり。作る側はやりたいことをはっきりさせ、完成度を目指す工夫が重要です。有名だからとか、知り合いだからという支持とは違うから、作品の不足面を埋める着眼も必要です。

こちらとしてはアウェーの洗礼に見舞われないよう、できるだけ売れる方向へ押したり引いたり加勢します。実際にやった加勢で多いのは、支持者が現れやすい作品選びが第一です。音楽のシングルカット曲に当たる作品を探します。

しかし作者はごく個人的な流れの中にいて、苦労した作品や地味ないわくつきの番外作を希望することもあり、選ぶ時点で難航は起きます。日本では「他を信じず自分を信じろ」式の戦後思想が続いている面もあり、そこが引っかかって出せなくなってしまうオチも何度かありました。

やってみないとわからないのも正直なところで、何をすればどうなったかの統計結果が増えるまで、こちらも加勢に及び腰でした。出品数を最低二点にしておき、マーケットリサーチはやりやすくしていました。三、四点出される方も増えたのは、やはり作風に幅がある今日だからでしょう。
2018/04/03

美術作品を売れるようにする具体的な意味は|日本の作品は角が丸すぎ

日本の大規模展覧会は、作品の権威づけが主目的の公募コンテスト形式が大半で、作品の売買が主目的のアートフェア形式はわずかです。そのため、作品を売ると決めた外国遠征展に、やや違和感も起きるでしょう。

多くが一瞬思うのは、たぶん次の点でしょう。「芸術は個人の感情の自由な発露である」「だから売るための妥協はよくない」「自分の作品は自分が信じるとおりで、角を丸められては困る」と。

実は逆です。日本の作品は角が丸すぎます。作者が思うほど、自由の発露でもなく。ホメオパシーふうに、透明で味が薄い作品が主流です。丸すぎる角をとがらせないと、現地で効きめがなかったりして。

強すぎる個性にドイツ人がおののかないよう、解毒して送り出したことは一度もありません。実は逆で、クリーンな健康作品をダーティーな不健康作品へと、近づける作業がむしろ必要なのです。作風に幅がある中から選ぶ時は、まずはその視点で探します。

公募コンテスト展では、ダーティーな不健康作品はそれが欠点とされ落選します。長年かけて日本の美術界では、汚れなき健康作品を求め合うクセがついています。刺激のない、よい子作品が幅をきかせるホーム。

対してアウェーの外国では、「芸術は個人の感情の自由な発露である」「だから陰気だったり、悪臭もある」の前提があります。ちょい悪以上が芸術だとするのが、他国のロジックです。これは、よい子アートが歴史に残っていない過去を学習した結果の改善策でしょう。
2018/03/27

ドイツと日本の両方で絵を売るコツは|オリジナルの扱いが反対だから

ネットによくある質問は、「絵を売る方法を教えて欲しい」と単刀直入です。売り方は別にあるとして、先に知りたいのはこれでしょう。「売れる絵を制作するコツは何か」。

実はこちらへ初参加する方も、それを割と意識されます。文化交流の面で参加する意義や、見ていただけるという次に、できれば売れて欲しいのは当然でしょう。そして実際に、外国の美術展はむしろ売買を文化交流と呼ぶようなものです。相手は買うのが楽しみ。

どう作ればドイツで売れ、どんなふうだとだめか。何をどういじれば可能性が開けるかは、すでにある程度つかめています。むろん相手あっての確率だから、偶然の出会いも要素となる不確実性の中にありますが。

ところが、「日本国内で売れる制作のコツは?」と問われると困るのです。困る原因は、日本の鑑賞者の多くはモチーフ当てごっこに向かうから。しかも個人の価値観は希薄だという前提があり、誰に何を訴えるか目標を定めにくいのです。要は、能力主義社会ではない。

作品そのものをあまりよく見ない問題は、著書ブログで触れています。ドイツで売れやすそうなオリジナル絵画があるのですが、日本で批判一辺倒に巻き込まれた実例です。作品をよく見ないで、トークだけは羽ばたく傾向の国内事情がそこにもみられます。

そこで出された批判の動機はわかっています。絵が優れている証拠書類がないから、値打ちがないとみなしテキトーに叩けと。優れものを裏づける連帯保証人が不在だから、足元を見ろと。日本で売れる決め手のひとつは作者のルックスですが、そこでは顔写真は出していなかった。
2018/02/05

絵画作品が売れなかった時にどうする|否定的な存在という立ち位置も

外国の美術展覧会は日本と違い、役所内ギャラリーでさえ作品に値段をつけて売ります。自信満々で売れなかった美術家は、自信喪失したり、くさったり、あるいは責任を外に求めるなど、心理動揺するかも知れません。

中には、自分がいかにゴッホに近いかを実証するために、売れない連続記録を暗に期待する画家もいるかも。いつかはギネスにのってやると。アート作品の売れる売れないは、ゲーム感覚みたいな面もあります。性格占いもできそうな。

しかし連ちゃんだと気づきますが、売却は時の運が大きくて、団体展では「自分の時間」みたいなものも生じます。売れたから今後は類似作に傾いたり、売れなかった作風を放棄したりだと、偶然性にペースを狂わされるでしょう。ベテラン美術家はその分析と駆け引きがうまい。

美術大学では、作品を売る哲学は教えていないはず。売れた時や売れなかった時に、どう対処すべきかが一般論になっていないものです。ここが大事なのは、他の商品と違って芸術は否定的に存在できること。

新しい作風を、世界初でつくるから創造と呼ぶのであって。だから外的にマンネリを起こさず、内的にマンネリを起こす難しい作業になります。そんな作品は第三者から見れば、何かが変で異様で異端だったり。理解が遅れるのが芸術の取りえです。

ドイツでの日本美術展もこの基本は変わらず、売れずの作品をもっと売れにくい方向に徹底する作戦もあります。なかなかブレイクしないタイプに、大きい期待をかける正義の理屈がちゃんとあるのです。
2017/12/21

ならば、どういう作品が外国出品に必要か

完結した作品が必要です。作品を探すうちに本人が出品を断念したケースに、タブローの不在がよくありました。かきさしのスケッチ画はあるが、完結した一枚がないというのでは、出品に至らないことが多かったのです。

「自分は絵をかいていて、あれもこれも色々やってみたい」系のブログに見かけますが、断片スケッチの紙を並べると迫力が出ても、一枚だけを抜き出すと物足りないのです。おかずのつくりさしが一個ずつ入った弁当が何箱もあっても、それだけでは売れない。

売る時は一箱にまとめて、腹につもる程度に満ちている必要があります。部分的におかずを上手につくれても、市場に出すには一個の箱全体を満たして完成していないとだめ。売れる弁当をつくるために、それなりの充実が必要です。

ただし日本で介入してくるのが、「自由が大事だ」「売る目的はよくない」「商業主義はまずい」という抵抗感です。コマーシャリズム的な作為を排除したい思いが混じってきます。世界ではあまり一般的でない特殊な思いですが。

商業と芸術は特に相関しないものですが、反比例でとらえやすい日本では、美術家が実力発揮しにくい面があります。「モナリザ」「夜警」「浮世絵」などは、実は商売作品だったのに、変に崇高に解釈する間違いが起きています。見上げすぎるというか。

断片的なスケッチ作品は売り物にならず、画学生の習作のようなかき散らした制作活動では足りません。さらりとした浅い感覚でヒョイヒョーイと走りがきしたような絵は、外国のお客の感興を誘わないものです。
2017/12/17

作品の販売を強化する発端は外国からのブーイングだった

今年の新人は、参加検討中に出品を断念したケースが多かったようです。不合格はないから、最初に出品向けの作品を探すわけですが、その途中で準備不足を感じたのかも知れません。制作の上手下手の次元ではなくて。

作品の良し悪しは、当初の企画では不問でした。コンテストではないから。ところがドイツ側のお客は、日本のように何でもありではなかったのです。作品が至らない時は、現地客ははっきり指摘したそうな。現地での反応から察するに、作品内容がショボいのは最もまずいと知りました。

日本の展覧会は全く違う考え方ですね。鑑賞は無料だから、出品する側の美術家が望むとおりの作品を気が済むよう展示するものだと。作る側が自由に振る舞う権利があるというのが、日本のアートイベントにみられる常識でしょう。僕の芸術的衝動が優先すると。

しかしアートが一般化して、市民一人一人が審査権を持つヨーロッパは違います。無料見物であれお客たちの時間を消費しているのだから、引き換えに得るものが必要なのだと。この得るものとは、目の保養だとか心の糧となる体験などではなく、作品の実物だったのです。

現地客は作品を買いに来ます。家の壁やコレクションに加えるために、日本の新作展にも足を運んでくれます。裕福なコレクターは、内容しだいで高くても買う。当然ながらこちらも応じます。元々が売り物のつもりでない実験作品や奇抜作品であっても、相手が買い取れる範囲に入れて送り出します。

ところが日本では「芸術は自由なはず」「自分を曲げるべきでない」「ゴミが何億円にもなる時代だし」の何でもありが悪く出て、見る相手の存在が消えています。「別に売れなくてもよいさ」の割り切りが、芸術度を下げる元凶です。
2017/11/23

五千万円の絵が盗まれた事件と抽象画の巻き返し

ドイツ遠征では抽象絵画の参加が減っています。原因は国内で減っているからで、買う空気がない不景気で抽象画家の意気も落ちやすように感じます。我こそはという抽象画があれば、ドイツに向けて送り出しましょう。

「最近は抽象画に抵抗がない人が増えたね」なんて意見はみられません。何でもありのネットでも、「全然わからん」「意味不明」「きれいでもない」「いらね」の意見が圧倒的です。局地的に抽象美術が売れるゾーンはあっても、理解が広がっている様子は国内にみられません。きざしもない。

たとえば先日の、五千万円の絵を盗んで有罪になったニュース。元は駅の壁にあったあのアクションペインティングの純粋抽象を見て、金額に合った内容なのかの議論は起きていません。難しくて僕は全然わからないと言う感想ばかりが集まりました。何よりも反響の小ささ。

こうした抽象へのマイナス評価が寄せられてきた一因は、作品側にもありました。抽象画はモチーフのおもしろさをウリにできないから、元々見せ場づくりが難しい。その難しさに打ち勝った抽象画が少ないという、往年の構造問題があります。高度ゆえ、傑作率が元々低いという宿命です。

抽象画をいくら工夫しても、腹ペコの人にジュースを出してしまうような、的へ当たりにくい面があります。世界中で多様な作風が出そろうにつれ、抽象画の新作が他人と趣味が一致する確率は下がっていく計算にもなります。モチーフできずなをつくれる具象画の方が、絶対的に有利。

そこで、いっそチーム化して作ろうではないかと考えました。こちらが買う身になり、作品に足りないものが何なのか調べる。徐々にそうした解決法が増えているところです。独りでやりたいように作っても一向に夜が明けない理由は、別に謎ではないのだから。
2017/11/13

信念とやる気こそが使えない人の証明だという分野

入社試験の面接では、しっかりした信念とやる気をアピールした学生が、優れた人材と認められる傾向があります。わが社を目指す動機は何かとたずねた時、整理された明快な答がはきはきと返ると、面接官も感心して一押しに選ぶだろうと。

しかしその常識的な見方が無意味、あるいは現実はそうならない例が、ある業界から示されました。ネット投稿サイトで活躍している葬儀社の、社長による内情報告です。しっかりした信念を胸に抱いて、やる気に燃えていた学生は、入社してから仕事が続かずやめていくという。

よくみるのは、「みんなの役に立ちたい」「社会貢献したい」という高い志だそうです。葬式を取り行う重要さへの尊い気持ちと、冠婚葬祭の伝統を守っていきたいという立派な見識です。そうした学生は、早い時点で転職するらしい。同業他社へ移るのではなく、業界を去って職種も替えて。

何となく食っていくために、仕方なしに葬儀の仕事でいいやという学生が、長続きするという。入社後もその調子かと思ったら、それも逆で。かえって仕事の本質を身につけ板について、ベテラン化する法則らしい。

かっこいいことを言うと化けの皮がはがれるとか、最初から軽い気持ちだと壁に当たらないなど、脳の作用もあるのかも知れません。しかし大事なのは、世の業務は食っていくために仕方なく存在する二重性が最初からある点です。絶対に欠かせない聖職も同じ。企業理念も後づけだし。

美術でも、可能性を夢みる人を見かけます。しかし事前のやる気と高い志が作品に結晶したためしがなく、早めに撤退してしまう法則を感じていました。食いぶちが人をつくる面は芸術にもあるかも知れず、大儀なしに作る方が挫折は起きにくいのかも。
2017/09/18

東日本大震災の幽霊とアート・マネージメント・システム

アート・マネージメント・システムで画家のコンセプト整理に当たるうち、スピリチュアリズムに話が行くことがあります。思考より哲学より、まだ奥のもの。並行して、個人サイト用の増補出版草稿も進めており、これがなぜか東日本大震災の幽霊関連テーマです。

東日本大震災は世界にツナミとゲンパツの衝撃を起こし、ドイツでは政策が急きょ180度変わったほど。ただ副産物として「今の日本はどういう国か」「日本に特別なものが多い」「旅行して最高だった」「僕も日本を知りたい」と、世界的な反応も起きました。

2016年から、東日本大震災の現場に出る幽霊の話題がネットに増えました。大学の研究が発端ですが、霊体があるかないかの話に向かわないのがミソです。興味本位の不謹慎との指摘もあったものの、太古以来の慰霊の方向へと収束し、割り切らないグレーなとらえ方に理解がある日本人が多い。

災害現場の怪現象は、かつての民放テレビならこうかも。「不思議な体験が続く、犠牲者の霊が出没する夜、その時カメラは見た」。しかしこうした昭和の感覚は変容し、今はフォークロアの原型にむしろ忠実です。「今の日本はどういう国か」が表明されている感じ。

はっきり感じ取ることと、存在することはイコールでなく、空白があります。そのすき間で、もめるひとつが芸術です。上手なデッサンや鮮やかな色とは違う、説明困難な次元に芸術性が宿る現象を体感することが多いから。

日本の画家は花鳥風月を基本形として、社会問題を後回しや婉曲にとどめる作り方が多いようです。そこには、かえって原始的なスピリチュアリズムが入りやすいのでしょう。ただそれを絵に表すのに、慰霊方向に落ち着きながらも、「その時カメラは見た」の衝撃も欲しいのですが。
2017/08/31

海外遠征展覧会の募集作品の指向は全方位

時々質問を受け、「自分の作品は、そちらの指向に合わないと思いますが」という前置きが届きます。その合わない作品の方向性は一定せずまちまちで、合わないという同士の共通性もなく多様です。ということは作者の気持ちの問題か。

日本ではデフレ不況が長く続き、たとえば今の30歳は、小学校に入ると不況が始まりました。不況の時代は、普段から何かとギスギスした暮らしの空気になるものです。重箱の隅をつつく否定気分が蔓延し、ネット以外でもみられる不寛容もそう。

たとえば、今の国内求人はバブルを超えた好景気とアナウンスされ、むろんデマです。本当のバブル時代は、猫の手も借りる毎日でした。「手があいた男がいるって?、いや女か、何でもいいから連れて来て」という調子。その場で採用。やがて社員。

今は違います。求人で不採用にされた声の山。足りないのは猫の手でなく、超人の手だから。該当者がいるのか謎の条件つき求人が目立つ。一頃流行ったコンピューター結婚システムが、有名大学卒で年収2000万円、身長180センチ以上の若いイケメンを求めたのを思い出します。今の求人もこの買い手市場と似ている。

この渋い求人の空気は、同じ国内の求美術でも起きるはず。作る側が条件を多重に求められているような気分が蔓延していて。しかしドイツ遠征展では、求日本美術状態が続いているから難しいハードルはありません。あらゆる作風を買う気運が現地にあり、割とゆるい。

ここで募集する作品にも、指向性はないのです。ただ、芸術性が低いメリットはないという普遍性はあります。どんな料理でもよいとして、味がしないと誰にとってもまずいから、味をはっきりさせておく必要はあります。
2017/08/22

海外美術展に参加する初心

初参加で出品作が完売するつもりでいても、実際は希望どおりにならないのが普通です。おそらくSNSで国内からの「いいね」評価が多かったから、流通量が多いヨーロッパへ持って行けば、ほぼ確実に売れるという読みなのでしょう。

しかし日本とドイツの美意識の違い以前に、美術が特殊化している国と、一般化している国の違いがあります。尺度をどこに置くかが違います。見る価値に置く日本と、買う価値に置くドイツの差があります。

日本での作品評価は見る価値に寄りがちですが、ドイツだと買う価値になるから本気度が違います。想像ですが、日本では「拍手するけれど買おうとは思わない」が多く、その分甘い評価になりやすいと推測できます。見るだけならタダだから、何とでも感じて、何とでも言えるという。

見る価値の採点よりは、買う価値の採点の方が真剣なはず。この差はまんま、売らない公募コンテスト方式と、売るアートフェア方式の違いになります。だから海外遠征では、公募コンテスト感覚からアートフェア感覚へ切り換えると、やはりうまくいくのです。

しかも海外遠征だと相手は知らないお客だから、仲間内の「いいね」とは違う関係です。結果的に参加者は、何かを変えつつ方法を修正しながら、やりたいことを固め直す作業に入ります。「芸術は自由に伸び伸びやるもの」の信念だけでは、相手がついて来ない確率が上がるから。

一般の募集展示は、全てがプライベート感覚に終始する自己責任方式です。しかし世界ではチーム作業化もみられます。ここでは傾向と対策はある程度わかっているから、買う価値に迫る効率化の手だても用意しています。
2017/06/24

アーティストをプロデュースする新企画を準備中

最近新しいパイロット企画をスタートさせました。これまでのマネージ・アンド・プロデュースそのままの、アーティスト売り込み契約です。音楽のプロデュースと近似した作業で、アーティストの作品強化を図って売り出すものです。売らないと一円にもならない企画。

ドイツの人たちが日本から来た美術を見る目は、毎年進化しています。日本からのアート作品が集まり始めた当初は、知られざる日本現代美術への好奇心が先行しました。「何だ、何だ?」と見て確かめたかった。

しかし現代アートの一般化を済ませているヨーロッパとあれば、作品を買う話にすぐなります。コレクターアイテムの価値に着眼が移り選別が進む中、買えない作品は隅に置かれ始めました。当然こちらの企画も、参加者との作戦打ち合わせが増えています。出したいものを出すだけではだめで、買える範囲に入れないと。

買えない作品の代表は、サイズにくらべて高額なものです。さらに、買う視点に立つとアイデアのおもしろさでは足りず、ある種の完成度が決め手になります。100点満点で88点の作品だと称賛されど買われないのは、各国のアートが豊富に集まっている地だからです。

88点を96点に上げるプラス8点の増強を図る、アート・マネージメント・システムを考えました。作者の理念やコンセプトを整理し、作風を補強して、原案も出すなどしてボーダーラインを超え、作家ブランドを確立させます。

この方法の動機は、音楽では何人もが協力し合い互いを伸ばすのに、美術にはそれが全くない差でした。作者が歳をとっても広がりが出ない。音楽には95点の曲が多いのに、美術では79点あたりが多い。ひとりで発案し作詞、作曲、伴奏、歌唱しても限界があるから、美術でも音楽並みの協業システムをつくろうというわけです。
2017/05/14

芸術と商業の対立は外国では意外に起きないもの

初めてお試しで海外出品する参加者へ、作品決めの段階で「こうした方がよいかも知れません」と、私案を述べておくことが増えました。作風の完成度を高めるにはどうするかの方向で、こちらが率先して案を出すこともあります。

要は芸術度を高める方向ですが、それが商業主義とぶつかるような混乱は起きていません。映画にたとえるなら、社会問題を告発するシリアス路線を、ファミリー向け娯楽映画へとまとめ直すようなことは、美術作品では不要だからです。

というのは、美術は一点売れば済むし、映画のように万人向けに仕立てて興行成績を上げたりは不要で、最大公約数をカバーすることは考えません。芸術性を下げた代わりに商業性を高めるという、妥協的な引き換えの発想はいりません。ポピュラリティーを加える量が小さくてよく。

参加希望者の作品は、もっと商業方向へ引っ張っても創造性は損ねないと考えています。言い替えれば、独り合点のマイナス面を持つ作品が、国内に多いということかも知れません。そのマイナス面は、ほとんどの場合で何かの不足です。過剰ではなく不足の方。

不足しやすいのは簡単に言えば見せ場で、音楽で言うサビの盛り上がりが抜けている作品が多いように感じます。これは国内の空気のごとき忖度を受け、目立たない地味な方向へ作品が引っ張られるからではないかと。

「その絵はだめでこっちがよい」と日本で誰かが偉そうに言う場合、必ず主張が薄い作品が推奨されます。濃い作品をすすめるケースは皆無といえるほど。薄味にする説教がまた始まったかと。こうした間違った指導で欠けた何かを、価値観が逆の外国向けに加え直すことが多いのです。