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2019/07/28

美術を作り続ける動機は神のさい配か?

アートを制作する動機は何か。よく聞く俗説は「作る衝動」。それもおそらく正解のひとつで、積み木に触れた子どもが口に入れる時期の後、並べたり積み上げて、未知の形態をつくり出す行動を説明できます。本能の情動みたいなもの。

その時必ずしも「おかあさんの顔をつくろう」とはならず、積み木をかためたり広げたりして、一種の空間デザインを行うことが多いでしょう。近代美術の発展どおりの、具象を崩して抽象化する手順ではなさそうで。

それはよいとして、衝動という短期とは別に、長い年月つくり続けるエネルギー源は何か。それは、自分は特別だという確信かも知れません。自分に他と違う独自性があると気づけば、人類の一代表に選ばれた意識も生じるはず。いわば引っ込みがつかなくなる。音楽ではそうした「選手」の人数は非常に多い。

自分の作品が他と異なり取り替えがきかないなら、自分が手を引けば人類にできたことが小さくなるわけです。人類の遺産に欠けが生じる。たとえわずかでも、既存の範囲から広げる使命を感じる本能でしょう。これは神のさい配というものかも。

しかし作った時に感じよく思える作品は、過去に誰かがやっていたりします。後出しの制作ほど、ゴミに映ってしまう宿命も負うでしょう。ゴッホの時点で、印象派のすき間狙い的な拡張が目立ちます。その最高傑作は結局、子どものかきなぐりみたいになり馬鹿にされた。

企画展示に出る作品にもいえて、見分けがつかないほど似たもの同士は出現せず、互いに拡散しています。しかし国内の鑑賞者の目にはどれも同じに見えるらしく、もっと作品同士の差異を広げたい気は残ります。ちなみに絵をわかるというのは、絵の心がわかることではなく、絵同士の違いがわかること。
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2018/04/29

外国で展示するために作品をどう作ればよいのか

日本では展覧会は見て楽しむ場で、ヨーロッパ国では買って楽しむ場といえます。買い物だから、壁に並ぶ絵が不ぞろいに傾いていても平気です。額がボロでも、なくても全然平気。雰囲気にひたるより作品内容のチェックだから、脳内ではきれいに見えています。

ドイツで個人に買われた絵は、室内に飾られ眺められます。現地のギャラリストが作品を取り扱う相手も、コレクターなど鑑賞客であり、値上がり狙いの転売目的は少ないようです。

なので買われた作品は、誰かが好みの偶像として個人評価したわけです。これいいだろと、他人に自慢したり。作る側はやりたいことをはっきりさせ、完成度を目指す工夫が重要です。有名だからとか、知り合いだからという支持とは違うから、作品の不足面を埋める着眼も必要です。

こちらとしてはアウェーの洗礼に見舞われないよう、できるだけ売れる方向へ押したり引いたり加勢します。実際にやった加勢で多いのは、支持者が現れやすい作品選びが第一です。音楽のシングルカット曲に当たる作品を探します。

しかし作者はごく個人的な流れの中にいて、苦労した作品や地味ないわくつきの番外作を希望することもあり、選ぶ時点で難航は起きます。日本では「他を信じず自分を信じろ」式の戦後思想が続いている面もあり、そこが引っかかって出せなくなってしまうオチも何度かありました。

やってみないとわからないのも正直なところで、何をすればどうなったかの統計結果が増えるまで、こちらも加勢に及び腰でした。出品数を最低二点にしておき、マーケットリサーチはやりやすくしていました。三、四点出される方も増えたのは、やはり作風に幅がある今日だからでしょう。
2018/04/03

美術作品を売れるようにする具体的な意味は

日本の大規模展覧会は、作品の権威づけが主目的の公募コンテスト形式が大半で、作品の売買が主目的のアートフェア形式はわずかです。そのため、作品を売ると決めた外国遠征展に、やや違和感も起きるでしょう。

多くが一瞬思うのは、たぶん次の点でしょう。「芸術は個人の感情の自由な発露である」「だから売るための妥協はよくない」「自分の作品は自分が信じるとおりで、角を丸められては困る」と。

実は逆です。日本の作品は角が丸すぎます。作者が思うほど、自由の発露でもなく。ホメオパシーふうに、透明で味が薄い作品が主流です。丸すぎる角をとがらせないと、現地で効きめがなかったりして。

強すぎる個性にドイツ人がおののかないよう、解毒して送り出したことは一度もありません。実は逆で、クリーンな健康作品をダーティーな不健康作品へと、近づける作業がむしろ必要なのです。作風に幅がある中から選ぶ時は、まずはその視点で探します。

公募コンテスト展では、ダーティーな不健康作品はそれが欠点とされ落選します。長年かけて日本の美術界では、汚れなき健康作品を求め合うクセがついています。刺激のない、よい子作品が幅をきかせるホーム。

対してアウェーの外国では、「芸術は個人の感情の自由な発露である」「だから陰気だったり、悪臭もある」の前提があります。ちょい悪以上が芸術だとするのが、他国のロジックです。これは、よい子アートが歴史に残っていない過去を学習した結果の改善策でしょう。
2018/03/27

ドイツと日本の両方で絵を売るにはどうすればよいのか

ネットによくある質問は、「絵を売る方法を教えて欲しい」と単刀直入です。売り方は別にあるとして、先に知りたいのはこれでしょう。「売れる絵を制作するコツは何か」。

実はこちらへ初参加する方も、それを割と意識されます。文化交流の面で参加する意義や、見ていただけるという次に、できれば売れて欲しいのは当然でしょう。そして実際に、外国の美術展はむしろ売買を文化交流と呼ぶようなものです。相手は買うのが楽しみ。

どう作ればドイツで売れ、どんなふうだとだめか。何をどういじれば可能性が開けるかは、すでにある程度つかめています。むろん相手あっての確率だから、偶然の出会いも要素となる不確実性の中にありますが。

ところが、「日本国内で売れる制作のコツは?」と問われると困るのです。困る原因は、日本の鑑賞者の多くはモチーフ当てごっこに向かうから。しかも個人の価値観は希薄だという前提があり、誰に何を訴えるか目標を定めにくいのです。要は、能力主義社会ではない。

作品そのものをあまりよく見ない問題は、著書ブログで触れています。ドイツで売れやすそうなオリジナル絵画があるのですが、日本で批判一辺倒に巻き込まれた実例です。作品をよく見ないで、トークだけは羽ばたく傾向の国内事情がそこにもみられます。

そこで出された批判の動機はわかっています。絵が優れている証拠書類がないから、値打ちがないとみなしテキトーに叩けと。優れものを裏づける連帯保証人が不在だから、足元を見ろと。日本で売れる決め手のひとつは作者のルックスですが、そこでは顔写真は出していなかった。
2018/02/05

作品が売れなかった時にどうするか

外国の美術展覧会は日本と違い、役所内ギャラリーでさえ作品に値段をつけて売ります。自信満々で売れなかった美術家は、自信喪失したり、くさったり、あるいは責任を外に求めるなど、心理動揺するかも知れません。

中には、自分がいかにゴッホに近いかを実証するために、売れない連続記録を暗に期待する画家もいるかも。いつかはギネスにのってやると。アート作品の売れる売れないは、ゲーム感覚みたいな面もあります。性格占いもできそうな。

しかし連ちゃんだと気づきますが、売却は時の運が大きくて、団体展では「自分の時間」みたいなものも生じます。売れたから今後は類似作に傾いたり、売れなかった作風を放棄したりだと、偶然性にペースを狂わされるでしょう。ベテラン美術家はその分析と駆け引きがうまい。

美術大学では、作品を売る哲学は教えていないはず。売れた時や売れなかった時に、どう対処すべきかが一般論になっていないものです。ここが大事なのは、他の商品と違って芸術は否定的に存在できること。

新しい作風を、世界初でつくるから創造と呼ぶのであって。だから外的にマンネリを起こさず、内的にマンネリを起こす難しい作業になります。そんな作品は第三者から見れば、何かが変で異様で異端だったり。理解が遅れるのが芸術の取りえです。

ドイツでの日本美術展もこの基本は変わらず、売れずの作品をもっと売れにくい方向に徹底する作戦もあります。なかなかブレイクしないタイプに、大きい期待をかける正義の理屈がちゃんとあるのです。
2017/12/21

ならば、どういう作品が外国出品に必要か

完結した作品が必要です。作品を探すうちに本人が出品を断念したケースに、タブローの不在がよくありました。かきさしのスケッチ画はあるが、完結した一枚がないというのでは、出品に至らないことが多かったのです。

「自分は絵をかいていて、あれもこれも色々やってみたい」系のブログに見かけますが、断片スケッチの紙を並べると迫力が出ても、一枚だけを抜き出すと物足りないのです。おかずのつくりさしが一個ずつ入った弁当が何箱もあっても、それだけでは売れない。

売る時は一箱にまとめて、腹につもる程度に満ちている必要があります。部分的におかずを上手につくれても、市場に出すには一個の箱全体を満たして完成していないとだめ。売れる弁当をつくるために、それなりの充実が必要です。

ただし日本で介入してくるのが、「自由が大事だ」「売る目的はよくない」「商業主義はまずい」という抵抗感です。コマーシャリズム的な作為を排除したい思いが混じってきます。世界ではあまり一般的でない特殊な思いですが。

商業と芸術は特に相関しないものですが、反比例でとらえやすい日本では、美術家が実力発揮しにくい面があります。「モナリザ」「夜警」「浮世絵」などは、実は商売作品だったのに、変に崇高に解釈する間違いが起きています。見上げすぎるというか。

断片的なスケッチ作品は売り物にならず、画学生の習作のようなかき散らした制作活動では足りません。さらりとした浅い感覚でヒョイヒョーイと走りがきしたような絵は、外国のお客の感興を誘わないものです。
2017/12/17

作品の販売を強化する発端は外国からのブーイングだった

今年の新人は、参加検討中に出品を断念したケースが多かったようです。不合格はないから、最初に出品向けの作品を探すわけですが、その途中で準備不足を感じたのかも知れません。制作の上手下手の次元ではなくて。

作品の良し悪しは、当初の企画では不問でした。コンテストではないから。ところがドイツ側のお客は、日本のように何でもありではなかったのです。作品が至らない時は、現地客ははっきり指摘したそうな。現地での反応から察するに、作品内容がショボいのは最もまずいと知りました。

日本の展覧会は全く違う考え方ですね。鑑賞は無料だから、出品する側の美術家が望むとおりの作品を気が済むよう展示するものだと。作る側が自由に振る舞う権利があるというのが、日本のアートイベントにみられる常識でしょう。僕の芸術的衝動が優先すると。

しかしアートが一般化して、市民一人一人が審査権を持つヨーロッパは違います。無料見物であれお客たちの時間を消費しているのだから、引き換えに得るものが必要なのだと。この得るものとは、目の保養だとか心の糧となる体験などではなく、作品の実物だったのです。

現地客は作品を買いに来ます。家の壁やコレクションに加えるために、日本の新作展にも足を運んでくれます。裕福なコレクターは、内容しだいで高くても買う。当然ながらこちらも応じます。元々が売り物のつもりでない実験作品や奇抜作品であっても、相手が買い取れる範囲に入れて送り出します。

ところが日本では「芸術は自由なはず」「自分を曲げるべきでない」「ゴミが何億円にもなる時代だし」の何でもありが悪く出て、見る相手の存在が消えています。「別に売れなくてもよいさ」の割り切りが、芸術度を下げる元凶です。
2017/11/23

五千万円の絵が盗まれた事件と抽象画の巻き返し

ドイツ遠征では抽象絵画の参加が減っています。原因は国内で減っているからで、買う空気がない不景気で抽象画家の意気も落ちやすように感じます。我こそはという抽象画があれば、ドイツに向けて送り出しましょう。

「最近は抽象画に抵抗がない人が増えたね」なんて意見はみられません。何でもありのネットでも、「全然わからん」「意味不明」「きれいでもない」「いらね」の意見が圧倒的です。局地的に抽象美術が売れるゾーンはあっても、理解が広がっている様子は国内にみられません。きざしもない。

たとえば先日の、五千万円の絵を盗んで有罪になったニュース。元は駅の壁にあったあのアクションペインティングの純粋抽象を見て、金額に合った内容なのかの議論は起きていません。難しくて僕は全然わからないと言う感想ばかりが集まりました。何よりも反響の小ささ。

こうした抽象へのマイナス評価が寄せられてきた一因は、作品側にもありました。抽象画はモチーフのおもしろさをウリにできないから、元々見せ場づくりが難しい。その難しさに打ち勝った抽象画が少ないという、往年の構造問題があります。高度ゆえ、傑作率が元々低いという宿命です。

抽象画をいくら工夫しても、腹ペコの人にジュースを出してしまうような、的へ当たりにくい面があります。世界中で多様な作風が出そろうにつれ、抽象画の新作が他人と趣味が一致する確率は下がっていく計算にもなります。モチーフできずなをつくれる具象画の方が、絶対的に有利。

そこで、いっそチーム化して作ろうではないかと考えました。こちらが買う身になり、作品に足りないものが何なのか調べる。徐々にそうした解決法が増えているところです。独りでやりたいように作っても一向に夜が明けない理由は、別に謎ではないのだから。
2017/11/13

信念とやる気こそが使えない人の証明だという分野

入社試験の面接では、しっかりした信念とやる気をアピールした学生が、優れた人材と認められる傾向があります。わが社を目指す動機は何かとたずねた時、整理された明快な答がはきはきと返ると、面接官も感心して一押しに選ぶだろうと。

しかしその常識的な見方が無意味、あるいは現実はそうならない例が、ある業界から示されました。ネット投稿サイトで活躍している葬儀社の、社長による内情報告です。しっかりした信念を胸に抱いて、やる気に燃えていた学生は、入社してから仕事が続かずやめていくという。

よくみるのは、「みんなの役に立ちたい」「社会貢献したい」という高い志だそうです。葬式を取り行う重要さへの尊い気持ちと、冠婚葬祭の伝統を守っていきたいという立派な見識です。そうした学生は、早い時点で転職するらしい。同業他社へ移るのではなく、業界を去って職種も替えて。

何となく食っていくために、仕方なしに葬儀の仕事でいいやという学生が、長続きするという。入社後もその調子かと思ったら、それも逆で。かえって仕事の本質を身につけ板について、ベテラン化する法則らしい。

かっこいいことを言うと化けの皮がはがれるとか、最初から軽い気持ちだと壁に当たらないなど、脳の作用もあるのかも知れません。しかし大事なのは、世の業務は食っていくために仕方なく存在する二重性が最初からある点です。絶対に欠かせない聖職も同じ。企業理念も後づけだし。

美術でも、可能性を夢みる人を見かけます。しかし事前のやる気と高い志が作品に結晶したためしがなく、早めに撤退してしまう法則を感じていました。食いぶちが人をつくる面は芸術にもあるかも知れず、大儀なしに作る方が挫折は起きにくいのかも。
2017/09/18

東日本大震災の幽霊とアート・マネージメント・システム

アート・マネージメント・システムで画家のコンセプト整理に当たるうち、スピリチュアリズムに話が行くことがあります。思考より哲学より、まだ奥のもの。並行して、個人サイト用の増補出版草稿も進めており、これがなぜか東日本大震災の幽霊関連テーマです。

東日本大震災は世界にツナミとゲンパツの衝撃を起こし、ドイツでは政策が急きょ180度変わったほど。ただ副産物として「今の日本はどういう国か」「日本に特別なものが多い」「旅行して最高だった」「僕も日本を知りたい」と、世界的な反応も起きました。

2016年から、東日本大震災の現場に出る幽霊の話題がネットに増えました。大学の研究が発端ですが、霊体があるかないかの話に向かわないのがミソです。興味本位の不謹慎との指摘もあったものの、太古以来の慰霊の方向へと収束し、割り切らないグレーなとらえ方に理解がある日本人が多い。

災害現場の怪現象は、かつての民放テレビならこうかも。「不思議な体験が続く、犠牲者の霊が出没する夜、その時カメラは見た」。しかしこうした昭和の感覚は変容し、今はフォークロアの原型にむしろ忠実です。「今の日本はどういう国か」が表明されている感じ。

はっきり感じ取ることと、存在することはイコールでなく、空白があります。そのすき間で、もめるひとつが芸術です。上手なデッサンや鮮やかな色とは違う、説明困難な次元に芸術性が宿る現象を体感することが多いから。

日本の画家は花鳥風月を基本形として、社会問題を後回しや婉曲にとどめる作り方が多いようです。そこには、かえって原始的なスピリチュアリズムが入りやすいのでしょう。ただそれを絵に表すのに、慰霊方向に落ち着きながらも、「その時カメラは見た」の衝撃も欲しいのですが。
2017/08/31

海外遠征展覧会の募集作品の指向は全方位

時々質問を受け、「自分の作品は、そちらの指向に合わないと思いますが」という前置きが届きます。その合わない作品の方向性は一定せずまちまちで、合わないという同士の共通性もなく多様です。ということは作者の気持ちの問題か。

日本ではデフレ不況が長く続き、たとえば今の30歳は、小学校に入ると不況が始まりました。不況の時代は、普段から何かとギスギスした暮らしの空気になるものです。重箱の隅をつつく否定気分が蔓延し、ネット以外でもみられる不寛容もそう。

たとえば、今の国内求人はバブルを超えた好景気とアナウンスされ、むろんデマです。本当のバブル時代は、猫の手も借りる毎日でした。「手があいた男がいるって?、いや女か、何でもいいから連れて来て」という調子。その場で採用。やがて社員。

今は違います。求人で不採用にされた声の山。足りないのは猫の手でなく、超人の手だから。該当者がいるのか謎の条件つき求人が目立つ。一頃流行ったコンピューター結婚システムが、有名大学卒で年収2000万円、身長180センチ以上の若いイケメンを求めたのを思い出します。今の求人もこの買い手市場と似ている。

この渋い求人の空気は、同じ国内の求美術でも起きるはず。作る側が条件を多重に求められているような気分が蔓延していて。しかしドイツ遠征展では、求日本美術状態が続いているから難しいハードルはありません。あらゆる作風を買う気運が現地にあり、割とゆるい。

ここで募集する作品にも、指向性はないのです。ただ、芸術性が低いメリットはないという普遍性はあります。どんな料理でもよいとして、味がしないと誰にとってもまずいから、味をはっきりさせておく必要はあります。
2017/08/22

海外美術展に参加する初心

初参加で出品作が完売するつもりでいても、実際は希望どおりにならないのが普通です。おそらくSNSで国内からの「いいね」評価が多かったから、流通量が多いヨーロッパへ持って行けば、ほぼ確実に売れるという読みなのでしょう。

しかし日本とドイツの美意識の違い以前に、美術が特殊化している国と、一般化している国の違いがあります。尺度をどこに置くかが違います。見る価値に置く日本と、買う価値に置くドイツの差があります。

日本での作品評価は見る価値に寄りがちですが、ドイツだと買う価値になるから本気度が違います。想像ですが、日本では「拍手するけれど買おうとは思わない」が多く、その分甘い評価になりやすいと推測できます。見るだけならタダだから、何とでも感じて、何とでも言えるという。

見る価値の採点よりは、買う価値の採点の方が真剣なはず。この差はまんま、売らない公募コンテスト方式と、売るアートフェア方式の違いになります。だから海外遠征では、公募コンテスト感覚からアートフェア感覚へ切り換えると、やはりうまくいくのです。

しかも海外遠征だと相手は知らないお客だから、仲間内の「いいね」とは違う関係です。結果的に参加者は、何かを変えつつ方法を修正しながら、やりたいことを固め直す作業に入ります。「芸術は自由に伸び伸びやるもの」の信念だけでは、相手がついて来ない確率が上がるから。

一般の募集展示は、全てがプライベート感覚に終始する自己責任方式です。しかし世界ではチーム作業化もみられます。ここでは傾向と対策はある程度わかっているから、買う価値に迫る効率化の手だても用意しています。
2017/06/24

アーティストをプロデュースする新企画を準備中

最近新しいパイロット企画をスタートさせました。これまでのマネージ・アンド・プロデュースそのままの、アーティスト売り込み契約です。音楽のプロデュースと近似した作業で、アーティストの作品強化を図って売り出すものです。売らないと一円にもならない企画。

ドイツの人たちが日本から来た美術を見る目は、毎年進化しています。日本からのアート作品が集まり始めた当初は、知られざる日本現代美術への好奇心が先行しました。「何だ、何だ?」と見て確かめたかった。

しかし現代アートの一般化を済ませているヨーロッパとあれば、作品を買う話にすぐなります。コレクターアイテムの価値に着眼が移り選別が進む中、買えない作品は隅に置かれ始めました。当然こちらの企画も、参加者との作戦打ち合わせが増えています。出したいものを出すだけではだめで、買える範囲に入れないと。

買えない作品の代表は、サイズにくらべて高額なものです。さらに、買う視点に立つとアイデアのおもしろさでは足りず、ある種の完成度が決め手になります。100点満点で88点の作品だと称賛されど買われないのは、各国のアートが豊富に集まっている地だからです。

88点を96点に上げるプラス8点の増強を図る、アート・マネージメント・システムを考えました。作者の理念やコンセプトを整理し、作風を補強して、原案も出すなどしてボーダーラインを超え、作家ブランドを確立させます。

この方法の動機は、音楽では何人もが協力し合い互いを伸ばすのに、美術にはそれが全くない差でした。作者が歳をとっても広がりが出ない。音楽には95点の曲が多いのに、美術では79点あたりが多い。ひとりで発案し作詞、作曲、伴奏、歌唱しても限界があるから、美術でも音楽並みの協業システムをつくろうというわけです。
2017/05/14

芸術と商業の対立は外国では意外に起きないもの

初めてお試しで海外出品する参加者へ、作品決めの段階で「こうした方がよいかも知れません」と、私案を述べておくことが増えました。作風の完成度を高めるにはどうするかの方向で、こちらが率先して案を出すこともあります。

要は芸術度を高める方向ですが、それが商業主義とぶつかるような混乱は起きていません。映画にたとえるなら、社会問題を告発するシリアス路線を、ファミリー向け娯楽映画へとまとめ直すようなことは、美術作品では不要だからです。

というのは、美術は一点売れば済むし、映画のように万人向けに仕立てて興行成績を上げたりは不要で、最大公約数をカバーすることは考えません。芸術性を下げた代わりに商業性を高めるという、妥協的な引き換えの発想はいりません。ポピュラリティーを加える量が小さくてよく。

参加希望者の作品は、もっと商業方向へ引っ張っても創造性は損ねないと考えています。言い替えれば、独り合点のマイナス面を持つ作品が、国内に多いということかも知れません。そのマイナス面は、ほとんどの場合で何かの不足です。過剰ではなく不足の方。

不足しやすいのは簡単に言えば見せ場で、音楽で言うサビの盛り上がりが抜けている作品が多いように感じます。これは国内の空気のごとき忖度を受け、目立たない地味な方向へ作品が引っ張られるからではないかと。

「その絵はだめでこっちがよい」と日本で誰かが偉そうに言う場合、必ず主張が薄い作品が推奨されます。濃い作品をすすめるケースは皆無といえるほど。薄味にする説教がまた始まったかと。こうした間違った指導で欠けた何かを、価値観が逆の外国向けに加え直すことが多いのです。
2017/04/19

日本の抽象美術へのテコ入れ作戦

日本で具象美術よりも抽象美術が冷遇以上に嫌われるのは、過去に業界で続いた内戦とヘイトの結果も大きいと仮説を立てています。これは日本人の資質や素養として、根っから抽象が苦手な根拠が特にない証拠立てにもなっています。反日教育ならぬ、半抽象教育が招いた結果。

しかしこの問題の上位にあるのは、世界的な傾向として具象より抽象の方が数が出にくいことです。限られた客層で、選ばれた人のみ抽象を買い求める国際的な実態もまた、厳然とあるのです。人類はまんべんなくオールラウンドでもなく、全般に抽象が苦手になっているのも事実で。

画家が具象画で挑戦するか抽象画で挑戦するかで、課題は異なります。日本の作品をドイツで展示する場合でも、具象画なら目標をローカリズム表現に向かわせることが多くなります。つまり、具象美術は異国情緒をチャームポイントにしやすく、現に推奨しています。

それに対して抽象画は、日本らしく見せるハードルがぐんと上がり、ユニークなビジュアル図案へまとめる苦労が大きいのです。何かを写して似せるという、模写で生じるわかりやすい共感部分を捨てたのが抽象画だから。抽象はマイナスからの出発になりやすい。

モデルの魅力が七難を隠してくれる利が抽象画にはないから、定石を壊して特異性を加えないと、他人の感興を誘わない。佳作の抽象では、佳作の具象より見過ごされるハンデを計算に入れる必要があるということです。

具象画ほどは売れにくい抽象画をパワーアップする作戦で、実は抽象の方が改良の余地はより大きいと感じています。抽象画の方が足りない何かを見つけやすいし、具象より向上の幅も大きいという実感があります。そして何よりも抽象画の方が、抽象思考的にアプローチしやすいメリットがあります。
2017/03/02

美術を作り続ける動機をアーティストが保てない日本

どうも最近、経済の話題が多くなっています。芸術文化は経済力が支えるのだし、名品は好景気の中から出やすいし。買う側の貧困も、作者が制作に時間をかけられない貧困も、創造が生まれなくなる要因です。経済がアートを支えるものだから。

もう新規には作られていないアート集合サイトを、2017年の今いくつか訪問してみました。その昔CG販売サイトに参加していた2005年頃には、美術ポータルサイトやアート相互リンクサイトはまだ流行っていました。それが2008年頃から次々消えています。

さらに2010年代には、そうしたサイトに登録していた画家やイラストレーターのサイトとブログが次々消えました。どうやら2012年頃に、美術家が活動休止や撤退したケースが多いのです。不況の深刻化と東日本大震災と消費税率上げで、文化衰退は進んでいます。

アート集合サイトの残骸を見ると、「絵が好きです、色々描きますのでよろしく」という活字が今も目につきます。絵を描くのが好きなだけでは、残れなかったのでしょうか。確かな理念がある画家なら、不況でも続いたのかも知れませんが。

推測ですが、美術が好きで上手なだけにとどまらない、特別な目標や使命感を見つければ、美術制作も持続可能ではないかと。しかし関わって得るものがないと、迷い出すことになるでしょう。美術は生活必需品でないし、資格不要の自由業だから去るのも簡単です。

家計の問題で美術制作をやめるケースがこちらにも寄せられ、市場の欠損に自然に目が向きます。売買がそこそこ盛んな市場が常設的に存在しないと、駆け込むこともできません。郊外の美術祭でわいわいやるだけでは、一過性で刹那的です。ドイツには美術の一般市場があり、日本にはない差を感じています。
2017/01/25

アートは石の上に何年か

海外の美術展に一度チャレンジして、特に評価もなくそれきりあきらめた方は、おそらく日本中に少なくないのではと思います。そんな一方で、作品を改良しながら徐々に評価を上げているケースもあります。

これも一種の人生問題でしょうが、テレビなどに突然現れ脚光をあびて話題になっている、時の人というのがあります。うまい芸の思いつきがポンと当たったスピード出世かと思いきや、実は15年も前から同じことを延々と続けていたとか。

美術も石の上に三年だと足りず、急ピッチでも五年単位が現実です。その行動を追い越すかのように、こよみの年月がスタコラ走っていて、追い抜かれてしまう感覚です。展示会が終わった今、次へのスタートは早い方がよい気がしています。

ためらって立ち止まっていると、空白ばかりが増えてしまって。年輩になるほど「ついこの前」が7年も前だったりする現象と似て、時間が貴重になってきます。

企画の中では、連続参加による制作の停滞が減るよう、合理的な打つ手をともに考えることが増えています。展示会で売れなかった時、一人で考えても次の一手を決めにくく、しかし止まると復活できないことも多いし。こういうものは後のリカバーに頭を使います。

ただしやるべきことは、全方位に広がっているわけではありません。つまり、日本では根本的に「濃い世界観」を敬遠する傾向があり、通俗的にいえば個性の敬遠が足かせです。日本に暮らすと刷り込まれている「引いた部分」を押し出す作業が、作品改良のキモとなっています。
2017/01/17

美術と音楽ではイベントの回数が違いすぎ

美術と音楽を時々くらべますが、音楽活動で目立つのはイベント回数の多さです。多少でもファンがいるからコンサートが開けるのも確かですが、年間150日ステージに立つのは多い方だとしても、50日ならざら。

アメリカのジャズ系の大物は、若い頃に一晩に二カ所というのもよくあり、日本の現代クラシック系も国内を飛び回っています。全県を回るのもあるし。音楽では、表現者たちはせっせと布教活動を続けています。武道館だけでなく。それだけに鍛錬の積み重ねも多大で、腕は確か。

一方、美術を年150日展示したり、10回という美術家もあまりいないのかも知れません。美術の露出度は音楽よりかなり小さく、この程度でミュージシャンと同等の待遇が受けられないのは納得はできます。

アートフェア参加の初心者は、全作品が売れて即注目されるような、シンデレラストーリーを何となく思い描く瞬間があるでしょう。しかしリアルタイムの出世は、世界の美術館にある巨匠作品には起きなかったことです。『モナリザ』などは、当初はどうでもいい余技の絵だったし。

今から4日後に、ベルリンで展示会を行います。最後は駆け足でしたが、細かい準備の成果を皆で確かめます。しかし各作家が得るものを大きくできても、一夜で人生を変えるまでは行かない前提です。美術分野で一発屋は出ないものです。

本気なら、同じ美術展が年に2度あってもよいのですが、日本にそんなイベントはないような気が。ところがドイツには、年に4回行う同じアートフェアがありました。3カ月空けばテンションが落ちず飽きもしない、アートへの関心と4回もできる資金に、日本はとても勝てない気がしました。
2017/01/09

2017年成人の日に美術学生に何か言ってみるなら

今日2017年1月9日の成人の日は、いつもどおり二十歳が対象で、すでに2016年に十八歳に下げていた選挙権とは無関係です。

画学生や立体学生に何か言うなら、横の連帯のすすめでしょうか。昔から先輩は後輩にこの言い方をよくやるから、またかでしょうが。ムーブメントは一人では無理で、二人以上なら何とかなるから。

その点で、美術というジャンル自体に元から不利な構造があります。芸大の内情を書いた本でも、変わり者偏重がありました。変人のみ創造ができ芸術に届くという、最低条件みたいなものが学内で想定されているようで。アーティストが一人ずつ孤立するフラグになっています。

しかしその前提「変人説」の普遍性は疑わしいのです。日本は美術の一般化に失敗した珍しい先進国だという前提の方が、先にくるからです。日本に限り美術が特殊化して、一般の生活から遠く離れた位置にあり、当然ながら芸術家を取り立てて特殊扱いしたがる。そこを見落とせません。

精神病理や脳障害の線で芸術を解釈したがる一般人の思いに、くだけた美術エッセーが迎合的に応じている疑いです。現代アートに手を焼く国民感情への配慮でしょうが、そこには人類の感性が後世ほど下がっていく文明の運命を、計算に入れ忘れている問題があります。

ネットに精神病患者である芸術家が列挙されていますが、不思議な造形の作者が片っ端から並べてあって、要するについて行けない者が腹いせで書いています。芸術が全然理解できない自分は健常者に生まれて、ああよかったと言いたげ。これは、ヒトラーの『退廃芸術展』と動機が全く同じです。
2016/11/15

コンテンポラリーアーティストの作風が統一できない悩み

現代アーティストの悩みのひとつが、作風統一しにくいこと。原因はアートの多様化です。19世紀の画家は具象だけを手がけましたが、現代の画家は具象と抽象を並行して手がけたり、ラインナップすることも多いのです。

色々な作品が出尽くし、お手本が多岐に渡る時代なので、合計4種類とか、写真も入れて7種類など作品系統が多い画家が増えています。一貫した自分色でまとめ切れない、作風のデパート現象も起きるでしょう。

ひとつひとつの系統をかじるうちに時間切れで、スタイル確立半ばで放置とか。才が集中せず力点が分散するから、自己ベストや顔となる代表作になかなか結実しないとか。野球とサッカーを両方やるみたいで。

一人で作風がABCあって、別人のごとく共通の特徴がない場合が心配です。外国で毎年展示するとリピート客が多めだから、作風が毎度チャラになると固定ファン獲得に不利で。音楽と違い美術は、作者の同一性で記憶に残る面があるからです。

特別に手が器用だと、よけいにお試し作品を続けやすくもなり、こちらも「本命はこれとこれぐらいですね」と絞り込みたくなります。ところが「これでいきます」の決意があって、新たに考えたDタイプだと、何だかなーと。

現代作風の選択肢やお気に入りが多すぎて迷うことと、作風が一貫しないことは一応は別問題です。しかし、たとえば一人の水彩画とペン画が別人の作であるかに見える不統一は、目に入る既存作品に影響されたせいも大きく、こちらも話のタネにすることがあります。