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2014/11/30

常設コレクションの出張でGO

ペーパーアートコレクションを試しに別の場所に移してみることを、ひそかに考えていました。ハンディータイプのセットの利点で、最初から出張もありというふれこみでしたが、考えてみればもう7カ月も Reinhardt 通りでねばっています。半年たった時点で動くべきだったかも。

タイプの違うギャラリーを近くに見つけたようなので、ものは試し。日数消化で終わらせず、リサーチに出かけます。
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2014/11/29

食べる文化、見る文化

何人か外国人が集まった場で、さしみ料理を食べるかで二つに分かれることがあります。すしネタを初めて見てギョッとした人には、気分だけではない科学的な心配も起きるでしょう。腐敗していないか、虫がいないか、生体が持つ毒も。

外国の目には、採ったままの魚を食べてしまう未開の風習と映り、一か八かのゲテモノ食いをイメージしたり。日本人は慣れているから、生魚が平気なのだろうと考える外国人は多いのでしょう。

ところが調理する側は、ルールとノウハウでガチガチです。自由とは違う。まずネタはいつも同じ顔ぶれで、何でもありではない。さしみにできない魚種こそが膨大にあって、本職の板前がつくる場合はあれだけの限られた魚種の、限られた部位に厳選されるわけです。同じ魚種でも、さしみ用と煮焼用のシールが貼り分けられているし。

添えられた植物は、刺激的な味ばかり。薬味の意味に、初心者は気づかないかも知れません。身に刃を入れる向きや切り幅にも、赤身と白身で異なるセオリーがあって。念入りなお膳立てで築かれた食文化体系だから、こうした知識から入る道もあってよいでしょう。

目を展示室に移します。日本美術を外国人の知る範囲で解釈させて、好き嫌いを決めさせて足りるのか、いつも気になります。たとえば書の作品には個別の表現意図以外に、分野全体で共通した哲学でもあるのか。そもそもこれはノーマル作品なのか、それともアブノーマルなのかなど。危険な腐敗したアートではないか、相手はビクビクすることもあろうかと。

「作品を見てもらえばわかります、それが全てです」と投げるだけでは足りないと考え、こちらも対応を考えています。
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2014/11/26

名画名作の成り立ち

「人々は芸術なんてわからない」という声への同調は日本では多く、異論は少ないものです。「わからない気がするだけで、実はわかっているでしょう」と偉そうに言ってみたいところ。しかし、まるで理解されないことが確かにひとつ目立ちます。それは名画名作の成り立ちです。

「駄作しか描けない若い画家がいて、日々の努力と鍛錬を重ねた甲斐あって、年月を経て傑作が描けるよう腕が上がった。その傑作が歴史名作となった・・・」。こうした解釈が、日本では非常に多いのではないかと。

この筋書きは実態と合いません。これはおそらく日本の立身出世の理想像に基づく虚構で、国内の道徳規範が投影されたこじつけです。実際には画家は駄作や問題作を描きました。当然、当時その画家は悲惨な目にあっています。たとえばグレコやレンブラントもドラクロワも。

実際の現象は、時間がたって世代交代し、世の中の価値観が変わったのです。そして、過去のしがない作に普遍的価値があったと発見されて抜擢を受け、逆転して陽が当たった流れが西洋美術史です。皆がイメージするのとは違い、そもそも名人が名作を作ったのではなかった。

歴史はなぜ捏造されるかという今日的な問題が、美術名画の扱い方に暗示されています。名作物語のあらすじをこう落としたいという願望が、民族ごとに存在することが主な原因でしょう。

玉が石で石が玉だったという、イソップ物語を思わせる結末自体は、人類の普遍的な現象でしょう。この筋書きが特別好きな国もあるとして、ベルリンがポストニューヨークを狙うなら避けて通れないセンスなのかも。
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2014/11/24

あり得ない美術作品

「えっ、これが美術だなんて、まさか、あり得ないでしょ」という作品も待っています。

現代美術と銘打つと、既成の概念を超えることが期待されます。この「既成超え」の意味は、最初は一通りだけでした。やがて、二通りに分かれました。ニ通りとも展示された有名イベントとして、第一回シュールレアリスム展がありました。戦前の1937年パリ。

既成の概念を超えるひとつは、「美術でない美術」です。二つ目は「美術でない非美術」です。シュールレアリスム展で、前者の例はダリの超現実主義的絵画でした。後者は、会場の順路に置かれた電気トースターでした。

「こんなの美術じゃない」というサプライズを起こすのに、美術品を出すか他の物品を出すかで、現代美術は二分されました。「美術でない美術」という比喩的な言い方を、まんま額面どおりに受け取った通りのよい割り切りが、一度は世を席巻したわけです。

絵画という形式は終わったと、絵具と筆でかかれた作品が糾弾され、廃品アートが主流になったのは、しかしもう30年も前の日本でのこと。ブームは去って、すぐにまた筆記具で描くタイプのアートが逆転して今に至ります。

既成の概念を超えるハードルが、電気トースターよりもキャンバス画の方がケタ違いに高いのは自明です。「まさか、これはない」「ウソでしょう」というキャンバス画が少なすぎて、イメージさえできない結果にもそれは表れています。
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2014/11/22

きれいな色の絵が通用しない時

特にアクリル絵具で起きるケース。顔料の原色を活かして、うんときれいな色をつくって、うんときれいに塗った絵画があります。展示場でもうんときれいに見えますが、神通力が発揮されないのですねえ、これが・・・。

ネックは人工くささです。たとえば秋の夕焼けを表現する時、写真と違って絵だと一目で人工的に見えます。絵に塗る心象色は実物より彩度が高いから、涼しさが消えて暑苦しい。絵の宿命ですが、これが目立ちすぎるとヨーロッパでは不評になってきます。

悪評ねらいで、人類の保守的な嗜好に挑戦する反逆的な作品内容なら、過激な原色もいっしょにぶつける意味はあるでしょう。しかしナチュラル志向の写実画で、色だけ飛びぬけて人工的に鮮やかでも、ちぐはぐな存在にとどまります。

解決するなら、まずは面積配分の加減でしょう。ピュアな色を活かすために、濁った色を増やして画面を押さえ込むわけです。はしゃぎながら、沈んだ絵。そういう描き方の作品も一応は見かけますが、現地での評価は圧勝しています。なお、渋い中間色への転向は路線が違って別の話。

ところで、色にきれいも汚いもないという、そもそも論があります。音楽で、どの音程にもきれいも汚いもないのと似ています。音楽三要素を活用した編曲が命で、ハモったり対位法などで聴きどころをつくるから。

あらゆる表現物は見せ場となるサビで埋め尽くさないものであり、出し渋って強調します。一枚の絵の中がどこでも美色では、鑑賞者は瞬時にマヒし、ほとんど感慨を受けないという、そういうことなのでしょう。
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2014/11/20

作家サイトで一番大事なもの

一番はスピードです。レスポンス。サイトデザインの美しさは後回しでよし。いらないわけではなく、二の次で足ります。

なぜデザインは後回しか。ビジターはたいてい作品が目的だからです。器のサイトは別人の作と推理され、美術家の仕事とは区別されるでしょう。

画像表示で待たされたり、切り替えが自在にサクサク進まないサイトだと、少し見てわずらわしくて去ったりも起きます。冒頭に音楽や動画が流れるサイトは、ビジターの時間を奪うとして昔からNGですが、操作に冗長と遅延を感じるサイトも同様に敬遠されます。迷子になるのは論外。

コストをかけたフルオーダーでも、動作が重いサイトがあります。ページと画像を別々にサーバースクリプトでコールし、合体させて送る新方式で特に気になる傾向です。

「新しい推奨技術」に忠実すぎるボックス構造で、画面がなかなか座らないもたもたは日常的に経験します。画像がバリアブルサイズでリソースを食い、別サーバーからの転送待ちも加わる場合など。渋滞が送り側で起きていると、閲覧者のパソコン性能では解決しません。

エンタープライズ規模の有名サイトは、概してスピード優先です。しかし簡易なレンタルサイトは逆に自動統制が優先され、プログラムエンジンも大勢でシェアしていると、じれったい表示の原因になります。ホームページを特注する第一目的は、意外に動作の俊敏性にあります。
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2014/11/18

細密線画を主役にする

作品見本で時々見かける細密な線画について。細い線だけのイラスト画で、インクペン、ロットリング、ボールペンなどで細かく描き込まれています。ビートルズの『リボルバー』のアルバムジャケットを連想するタイプ。

このタイプの欠点は、少し離れるとかすんで全体像が見えず、展示会場で脇役になりやすいところです。室内作品というより、机上作品というか。あるいは音楽でいえば無伴奏ソロみたいな略式で、主賓としてフィーチャーされない場では、線の細い印象だけが感じられて物足りない。

音楽の演奏で、細い音を太い音に改造した一例に、ポール・サイモンの『The sound of silence』があり、プロデューサーがボブ・ディランのバンドがスタジオに来た折にアテレコさせ、どっしりした伴奏を加えたシングル盤です。20代前半のソングライターを、一気に世に知らしめた裏話でした。

では美術展会場で、細いペン画を知らしめるにはどうするか。ひとつのヒントは、『リボルバー』にありました。このジャケット画には線ばかりではなく、濃いベタ部分も多いのです。最初から全体のメリハリが計算され、伴奏もちゃんと鳴った、それなりに重みのある絵だったわけです。

ペン一本で自由に描くうちに、単調で均質な眠い絵に向かっていくパターンがある気がします。原因は、混じり気のない純粋を求める気持ちかも知れません。しかし芸術鑑賞する側は、混じり気と不純を求めています。
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2014/11/17

美術作品のレベル

「作品のレベル」という言い方をここでやらないのは、芸術の話が職人芸の話に簡単にそれるからです。それてしまうと、似て非なる分野が芸術の座に付いてしまい、焦点がどんどんずれていくことになります。

たとえば色鉛筆を紙に塗る時。プロは断然うまい。線の方向がピシッとそろって、筆圧も安定して、ムラのないさわやかな塗り跡が残ります。プロのドローイングは、素人とは大違いの技量です。

しかし、幼児がクレヨンでかいた絵とくらべるとどうか。幼児の絵の展覧会は、大人の展覧会よりも強い感慨を与えることもしばしばです。見る大人は幼児のレベルの低さを笑わない代わりに、年齢のわりに上手だと持ち上げもしないでしょう。レベルの次元を、適切に度外視しているわけです。

プロの行き届いた達筆よりも、幼児の行き届かない達筆の方が、生きた感じ、ライブ感で超えてしまうという現象を、多くの人がちゃんと把握できているように思えます。

美術品の豊かさは精度的な次元とは違うと理屈でわかっても、レベルという語を使ってしまうとそちらへ観点が寄ってしまいます。職人の匠の技を芸術扱いする害は大きく、19世紀パリや20世紀ニューヨークで起きた芸術運動が、何のためだったのか理解しにくいなども生じます。

芸術がよくわからないと言う人も、職人芸ならよくわかるもので、匠の仕事は意外に文化カテゴリーよりも文明カテゴリーではないかと感じます。
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2014/11/16

絵はがきと自叙伝

追加募集している絵はがき企画の完成品を、一部日本へ送り始めています。刷る枚数上限はあらかじめ決めてあり、小さい包みになります。

この絵はがきは三者の著作権を含む出版物なので、印税の数字が設定されています。企画の主目的は、ドイツ側での販売や作家広報です。これは自費出版と同じで、物語は出版社に相当するかたちになります。

自費出版で思い出すのは、日本で起きた自叙伝ブームです。素人が本を出す気運が高まった時代。その夢を抱いた一般人たちの一番の願いは、全国の書店への配本と販売プロモートでした。みんなに見てもらい、手に取って読んでもらうのが人生の大きな夢。

しかし自主出版は企画出版と違って、取り次ぎルートには乗りません。そこを自主出版社はうまく言い換えて、人気作家になれる予感をにおわせながら勧誘し、製本後にトラブル相談が多発したわけです。

実際の出版は実は本当に周辺コストがかかるので、自叙伝を500冊つくる総額はあんなものでした。ゴーストライターと印刷所の犠牲も下敷きに、しかもDTP化で設備コストがふくらんだ時期でもあって。「あの金額でベストセラー輩出なら誰も苦労せんわい」と、出版関係者たち。売る方と買う方のコスト感覚がかけ離れた契約の典型でした。

物語企画で美術画集や写真集も出版はできますが、当面の主力は絵はがきと作家カードなど一枚物です。できあがっても読みづらい自叙伝と違い、とても濃縮した作品になります。
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2014/11/13

3Dプリンターの夢と美術

3Dプリンターで、世の中が変わるという話題があります。ありました。最初のトピックは拳銃で、どうも自由を得ると悪事をはたらくのが人の世で。

平面ではなく立体なのにプリンターと呼ぶのは、液状化した樹脂を噴射や塗布して、立体物を空間に積み上げるからです。コンピューターで制御する工作機器自体は、かなり前からあります。

たとえば『字切る博士』という製品が、看板業種でありました。ハイド紙ではなく、ケント紙やカッティングシートから字を切り出すプロッターで、MS-DOSの3や5で使う出力機器でした。それを三次元化した自動彫刻機も、日本のローランドかグラフテックが製品化していました。

そのブロック削り出し方式だと、ピンポン玉のような中空物は作れませんが、今の3Dプリンターだと作れる理屈です。これも夢の実現とされるゆえんですが、今の期待は大げさでしょう。立体プリントしたピンポン玉が卓球台で元気にはずむか、適切に素材を調合する悩みを考えれば、今後も玉は自作せずにスポーツ店で買うのが得です。

3Dプリンターの本来の目的は、プロダクト業務でのクレイモデルの代替です。模型作りのツールとして、三次元CADから中間チェックする目的です。粘土のように部分を作り変えできなくても、これをアート制作に使おうという呼びかけが聞こえてきます。

彫刻に使う将来性を占うには、二次元グラフィックソフトを画家がどの程度制作に使っているかが参考になるでしょう。その実態は、デジタル化はコストがケタ違いに高く、手作業より断然遅くて味も希薄。3Dプリンターのアート作品展を考えても、どうしても腰が重くなります。
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2014/11/11

衝撃的な衝動と、衝撃的でない衝動と

現代美術はわけがわからないし、きれいでもないから消えてくれ、と感じている世代。その世代が支配権を発揮し、日本の現代美術家の海外流出が起きています。逆に、現代美術を学ぼうと来日する外国人はごくわずか。

その嫌現代世代の次に社会をになう和解世代は、芸術を「衝動の表現」と解釈する傾向があります。「よくわかんないけど、一応ああいうものもあっていいんじゃないですか」的なリベラル派が、アートをフォローする言葉が「衝動」というわけです。

しかしこれ実は、1960年代以降のモダンないしコンテンポラリーアートを見た印象に引きずられています。エキセントリックなびっくりアートへの呼応といえるもの。爛熟時代の衝撃へのリアクションです。太古から続く美術史を精査して導かれる冷静な結論とは、やはり違っているのです。

いや、しかし衝動の語の意味を広くとらえるとどうなるのか。「外出時に家のドアをあけたのは、外に出ようとする衝動のせいだった」と、日常の心の動き全てを網羅する意味なら、それはそうでしょう。何でもかんでも全部の行動に言えてしまう、フリーサイズ用語にすぎなかった疑いです。

芸術も芸術以外も、全て衝動によって行われるなら、「脳の命令で人が動く」式の原理にすぎず、衝動を大層に扱う意義もないでしょう。何というか、新型美術にお手あげなのが本心で、しかし降参せずに人を食おうとするささやかな反撃が、「芸術は衝動」の言い方に向かっているような。
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2014/11/10

ベルリンエリア拡張作戦準備中

ドイツ側ではあまり気にかけず、日本側で気にかけていること。作品と場所の適合性です。単純な話、銀座的な地理は老舗の高尚な商いに適しても、斬新で破天荒な新進が風を起こすロケーションとは違うという感覚です。

だからこちらの作品志向によっては、むしろ新興の地や、時には場末さえ考えられるという、そういう課題が前々からあるのです。日本側で突出した意識として。

「保守的現代美術」とは、奇妙な概念というか、矛盾語句に聞こえます。が、現代美術の歴史はもう十分長いので、定型になった現代美術や、コンテンポラリーのアカデミズム化はもうでき上がっています。現代っぽく見せるコツや近道は普及済みです。

対してポスト・コンテンポラリーを唱えるなら、場所柄は気にする。だから離れたギャラリーが複数欲しいわけです。もちろん2軒、3軒となれば非現実的。そこでとりあえず場所借りして試そうというのが、12月に始める二人展「2+1」シリーズです。借りるのは英国式ギャラリー喫茶レストランで、会期前にテスト展示して仕様を整えているところ。

ミニマム展とはいえ、決めることが多くあります。たとえば、DENのロゴを店内で使えるか。使うと、誰から誰にどんな支払いが生じるか。
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2014/11/08

しょうもない作品

テロと、信仰の自由。二つの区別がつかない日本に欧州国があきれたという、サリン事件の頃の雑誌記事。二つをスッと見分けるコモンセンスを持つ欧州国民には、朝まで討論しても答が出ない日本が変に映ったらしい。

自由と勝手の違いとか、個性と異常性とか、二つを分ける境界線を考えるとします。すると人は、含めたい対象と外したい対象が先にあって、何とかうまく区切ろうと、線引きの言葉をこねくり回す調整になりがちです。

美術でしばしば問題になるのは、独創と未熟です。カメラが普及して写実画が失効し、印象主義から始まったラフに崩された絵画たちがあります。以降エスカレートしていく「ラフ」と、上手をねらって届かない「へた」を、どう見分けるか。見分けたとして、どう説明するか。めんどうだからいっしょにした論もあって、意外に難解な問題です。

「しょうもない作品は、展示するな」と言ってしまうと、それなら当時のさえない凡作が後に名作となったケース、一例はモナリザですが、それはどう解釈するのか、簡単に突っ込めます。感動の有無や多数決を根拠にしても、後世の名作が当時とすっかり変わるのは知られた事実でしょう。

今では、作家側でチェックするほかありません。自分の仕事は独創か、それとも未熟かを。何をどうやってもアートと呼べる時代が来たという、現代の全世界的な大きなうねりも、実は壮大なあだ花にすぎないことも疑う余地が大きい、そのあたりでしょう。

お粗末でくだらない最低の作品があったとして、見方を変えると替えがきかない特異性があるのか、作者が突っ込んでおく習慣が大事でしょう。
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2014/11/06

秋はスポーツと芸術

サッカー日本代表。女子は世界の最上位クラスなのに、男子が40位あたりとイマイチなのはなぜか、という疑問を見かけます。参加国数の比を考慮しても、男子が大きく下回っています。

意外に繰り返される回答は、こんな感じ。「ワールドカップで優勝した日本代表女子は、国内の男子中学生との親善試合で負けた。女子サッカーは、本当はこんなに弱いのさ」。

女子が強く、男子が弱いという事実はないのだと、両者を直接対決させて立証する説です。これをジョークと受け取らないで、しみじみ納得する向きも多いという現代ニッポン。

そんなスポーツと対極にある芸術分野では、男女区分はないはずですが、たまに出てきます。女流画家や女流写真家というくくりで。男子の作品とは違うものを求めて、ジェンダーに主導させる女子力への期待というか。

もちろんモチーフの関心に差はあります。片や子どもと動物が好き、片や機械と社会が好きという、平均的にみられる違いはすぐに気づくでしょう。具象のマリー・ローランサンは、この差がウリでした。

これからは女性社員を優先せよと、数値目標を企業へ指示した政府の動機は、欧米からの外圧だったので色々と言われています。結果として生じるはずの男女比率を、原因の方に移す人為操作を加えると、果たして未来が開けるか。社会を変えたい時に出てくる、女神信仰を連想します・・・。という、タイトルとほとんど関係ない話。
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2014/11/05

ホームページをとことん作り込むと・・・

一品制作のホームページは、ワープロに書き込むようには作られていません。実際にはプログラム文の羅列であって、裏から手を回して命令言語と数字を操作します。画用紙に線を引き、文字をどこでも書き入れる作業ではなくて。

だから完成サイトの引き渡しで取扱説明書が必要となり、安い業者だとクライアントが後で困ります。一見さんだと説明書が10万円だったりしますが、制作会社はこれでも赤字。

作業はビジュアルデザインとかけ離れているので、大手WEB会社ではデザイナーとプログラマーが分かれます。建設業が基本設計と実施設計に分かれるのと似て、サイト業も大枠と細部の部門が分担したりも。

問題は、WEB仕様を策定する上位団体の限界です。決めごとにルールの空白はつきもので、サイトは空白部で異常を起こします。ない命令でも何らかの処理は必要だから、ブラウザソフトによって映り方が変わる障害があって。新言語をいち早く使うと画面が崩れたり消えたりして、だから国民的なサイトは一昔前の構造で作ってあります。

こんなだから、納得がいくまでとことん作り込むのは現実的でなく、きれいなサイトも効果的なポイントだけ押さえて、どっちでもいい部分は捨てているものです。印象だけでいいやと。

んっ、これは美術にもいえるのかも・・・。鑑賞客にとってどっちでもいいことを、追うか捨てるか。作品は印象だけでもいいやと。この話はまた今度。
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2014/11/03

ベルリン裏方の競争

日本で美術を作っていると、受験生に似た憂うつを感じる瞬間があります。コンテスト重視の空気もあるでしょう。ドイツでの競争は売買市場なので、この種の気の重さはありません。ひとにぎりの審査員の趣味で切り捨てられたりはしないから。

ただし民間市場なので、色々なものが常に動きます。つまり動転、変転、流転です。アートフェアも企業団体であり、勝ち残ろうとがんばる毎日です。展示場もギャラリーも競争しています。向こうは、固定の権威で支えられている世界ではないから。

日本で、交差点のコンビニが、たまに行くたびに別名に替わっていることがありますが、海外で前に参加した新進アートフェアが、スタッフがさっそうと写った写真もろとも消えていたことがありました。やはり安泰ではなくて。

気になるのは、身近な街の顔も変転することです。今年、オマケ展に決めていた壁が店舗ごと閉鎖されていました。あちゃー。ミニギャラリーなんてどこにでもあると思っていたのに、失ってから探すと決まって見つからないマーフィーの法則どおりです。
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2014/11/01

アートのカバーバージョン

ある缶コーヒーのテレビコマーシャルを見て、日本のバンドのファンたちが、「曲がパクられている」と世界へ訴えた小さなニュースがありました。「日本の歌を勝手に外国人が歌っている」とも。

外国人とはスティービー・ワンダーで、彼が90年代に作曲し、その著作権を後年に借りたのが日本のバンド。バンドのファンが本家を耳にして海外に盗まれたと思ったという、歌謡ファンに起きやすいパターンでした。

自分本意な若者の思考が批判されていますが、実際にスティービー・ワンダーには「これもそうだったのか」という隠れ名曲が豊富です。二枚組ベスト盤ぐらいでは、ベストが大量にあふれてしまう才人。ボックスセットでないと網羅できないほど。

たとえば79年頃にマイケル・ジャクソン用に合作した「I can't help it」は、すぐに大野えりが破格の熱唱でカバーしています。漫画アニメ『ルパン三世』と関係ある人。その記録はネットになく、世界的珍品の名演としてまだ隠れています。

ニュースで深刻な思いになるのは、今のミュージシャンが昔のヒット作を目玉にしがちな、一種の行き詰まりです。今のオリジナルはさっぱりだと叩かれて屈したのか、近年のJポップは英米オールディーズのカバーが増えぎみです。「君の瞳に恋してる」などスタンダードナンバーも、日本歌手の作と思っている少年少女が多い例でしょう。

しかし、「君の瞳~」が美術で繰り返されても、苦情も反論も音楽ほどは出てきません。原作のプライオリティーが美術では希薄というか、別に何でもかまわないほど遠い存在というか。カバーバージョンという視点でアートを見る人が少なすぎるのは、あまりに納得できることではありますが。
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