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2015/03/31

マネージ・アンド・プロデュースの物語

美術家は誰だって作風が固定しているわけではなく、進化や変転、実験やぶれたりもあります。それがない安定した制作は、実は職人カテゴリーに属していて、それゆえ芸術の文脈にはなじまない場合も多い。今も有効なアルティスト対アルティザンの対称性です。

プロも良い情報を仕入れたいし、先生もまた先生役が欲しいもの。たびたび話題になってきた「伸びしろを残したままの作品」というのを、過去形に終わらせず前線の課題に変えていくところです。

そのマネージ・アンド・ブロデュースの入り口は、「ブランド絵はがき」です。作者が絵はがきにのせたい画像を、事務的に受付処理するのでなく、作戦から入ります。どの作品のどの部分を作家の看板にするかを、検討し合う方式です。

アーティストの大きい目標は、「本物の重み」だと思います。「普通」から脱出する意味。一心不乱に作って済む話ではないし、作風によって解決すべき次元も違うし。

ところで、かつての芸術運動、たとえばシュールレアリスム時代に、美術家は意見交換の場を持ち、異種ジャンル間の交流もあったようです。

それに対して、何でもご自由にどうぞ、誰もじゃましませんという現代では、美術家は不干渉の気楽さの陰で、行き詰まりを解決させにくい問題があります。かといって、模範作品との差異を欠点とみなす審査で、自分の発見にはつながらないし。合否や切り捨てに他人の手を借りても非建設的。
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2015/03/27

景気の創造

不景気は「合成の誤謬」の典型で、素直な人が率先して起こします。収入が少し減った人が、支出を少し減らす素直な行動で、どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも、暗転し続けるメカニズムです。国民の足並みがきれいにそろっている方が、不景気がひどくなる理屈です。

物を買えば景気が上がるとわかっていても、みんなの行動に自分も続いてしまう素直さ。みんないっしょの輪をつくる、その輪の大きさに比例するように、大きい景気のうねりが長引くわけです。みんなにならっていたら生まれない、創造表現の論理と似ています。

問屋で商品を買い叩き、次々と業界最安値で店頭に出したあの社長。テレビはもうヒーロー扱いしなくなり、価格破壊押しをやめています。値下げは経済規模の縮小だから、国民の手取りも下がります。一時代前は、この程度の計算も解さない者がオピニオンリーダーになっていました。

新聞の売り上げが目に見えて減り、裕福なトップたちも経済縮小の恐ろしさに気づき始めました。それも最近。気づくのが遅れたのは、ひとつはネット時代が同時に進んだからです。たとえば本が売れない出版不況は、国民の貧困化とネット情報氾濫のどちらが主因か特定できずにいたのです。

高値が続く宅配ピザで安売り宣言した新規参入業者を、消費者は白い目で見るようになりました。好況業種がひとつ没落し、不況業種がひとつ増えるだけとわかっているからです。国民のこの新しい認識が日本にとっての朗報と思えるほど、変化はスローです。
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2015/03/24

2+1展 2nd stage の準備

アーティストとプロデューサーの少数精鋭型「2+1展」は、1st stage第3回開催中です。この企画は、作家は作るのに尽力して売り込みは別人の切り口でという発想で、限界を超える仕組みを加えた2人展です。チームで当たって見せ方を工夫し、一回ごとの展示会をもっと大事にまとめようと。

美学、社会学、歴史学、心理学に基づくコンセプトの融合はともかくとして、ひとつの山場は作品選定です。対比効果などを考えて作品の組み合わせを調整するには、それなりの手間がかかります。

現代は、芸術、非芸術、反芸術など、とれる手が際限ない時代といえます。そしてやはり、複数の制作ラインナップを持つアーティストが多いのも特徴。一人二役以上というか。その混濁がおもしろいともいえるし。

作風が確立されたアーティストが集まっていますが、個別の柔軟さはうまく発揮されています。新作を改良したり路線を変えてみるなど、アフターも自然に行えています。

とんがった変なものを展示して目立ちたい一方で、人気の商業地という与条件もあります。どちらかといえば芸術性を増強する方向で案が出ます。とはいえ商品価値以上に、見る意義が大きくなることを考えています。日本のように何をやっても「けっこうなものでした」とは言われない地で、打ち切りの可能性も常にあるから気が入ります。
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2015/03/20

フィルムカメラとデジタルカメラ

フィルムカメラとデジタルカメラは、音楽のレコードとCDの関係に似ているような。デジタル一眼レフカメラで撮影したデモ画像はネットにもあります。その高画質から、一部の写真家は思い出すかも知れません。大型カメラのアポクロマートレンズを。

レンズが光を屈折させて感光面に届ける際、プリズムの原理で波長の違う7色が分光し、たとえば赤色と青色が微妙にずれます。その色ずれを完全になくすには、レンズ群の前半部で分光させておいて、後半部で再び集めて打ち消せばよい理屈です。

その理屈どおり前後を鏡面対称に設計したのがアポクロマートレンズで、主目的の製版以外に商品撮影にも使われました。特徴は、非常に高画質でありながら、全く味がないこと。

フィルム時代の作家たちは、逆にレンズに固有の味を利用しました。残存歪みが生むにじみや、甘くなる描写傾向などを、すさびの風情や表現の隠し味に使ったのです。

今では入門用レンズさえ、非球面や低分散ガラスの投入で、収差が激減しています。コーティング材も隔世の性能。このハイテク応用はレンズ側の事情ですが、今のメーカーが味を消す最大の動機はボディ側のデジタルセンサーです。撮影後にパソコンで見て、微細にかっちり写る製品を神扱いするユーザー評が、売れ台数を直接左右する時代だから。

フィルムメーカーが転進や廃業した今、デジタルの表現力がフィルムに劣ると指摘されています。レコードよりも格段に高音質のCDが、音楽の心を伝えないと評されたのと似て。最初は扱いの簡便さでデジタルが歓迎され、時間がたってからアナログの味わいが見直されるパターンです。
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2015/03/17

展示会と写真

思ったのは、人は何のために生きているかです。毎日いっしょうけんめいでも、振り返ってみれば何もない決算かも知れない。そこで「人は写真を残すために」と、無理に考えてみました。

サイトをひとつ改装中で、過去の展示会場の写真を今チェックしています。振り返って、一枚の写真の中に色々なことが起きていたと気づきます。

絵を見つめる外国の人がいて、議論する人がいます。その日のために準備して、会場へ駆けつけてくれたのでしょう。人と作品が偶然同じ場に来て、また散り散りになって。今だって、人も作品も消滅せずにどこかにあるのでしょうが、一応その組み合わせは終わった後。再現不能。

展示作品にカメラを向けるお客の姿も、こちらのカメラに写っていたりします。自分史の記録みたいに。鑑賞者はつかの間に美術に没頭しながら、特別な場を記憶にとどめているのでしょう。こちらも、現地の記憶に残るようにと考えています。
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2015/03/11

東日本大震災と写真

2011年に起きたあの震災、そのエピソードで心に残ったもののひとつが、写真でした。散逸した個人の写真。ばらばらの建材の山に混じった金庫や札束といっしょに、あらゆる写真プリントを早くから拾い集めていたのです。警察、消防、自衛隊をはじめとする捜索隊のそれぞれが。

残った海水だまりに浮いたアルバムやフォトスタンド、泥に埋まった一枚写真なども、発見しだい回収されて。すぐに写真印画紙の企業から技術指導があって、器用なボランティアたちがたんねんにクリーニングし、乾かしている作業光景がありました。

多くが、「何と気の利く」と感じたことでしょう。

今さらながら、写真はいつか見た光景を残す不思議なものです。脳裏にある過去の記憶も、しばしば写真に残された構図そのままを、その後見返しては脳内に刷り込んで温めていたビジュアルイメージだったりします。

生きた証という言葉を物で示す時、写真によって呼び戻すことができる無形のものがあるわけです。今日では絵画さえ写真を元にして描かれる場合が多く、画材を持ち出して屋外で絵をかくこともめっきり減りました。写真の時代なのだと強く感じさせられます。
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2015/03/09

ベルリンで日本を撮影した色々な写真を展示募集中

テーマのある写真展をまとめました。カメラで日本を表現する展示会に、共通テーマを設けています。比較的自由な条件で、詳細は物語サイトにあります。

テーマ展は、自分にテーマが合っている部分よりも、違う部分が気になって、解釈の幅のハードルで積極参加しにくい面があります。

うってつけ以外は出す資格がなさそうな心配は、できるだけ小さくなるようにしました。どんな作品にもいえてしまう、普遍的な共通項としています。作品内容をみてテーマを変える可能性もあります。日独で関心が異なるから、切り口を変えることはよくあります。

開催後に、会場側のお気に入りを抜擢し、低廉追加料で資料を加えて、プロモート販売する二次会がセットされています。作品チョイスは、ドイツの視点だけで決めます。そこで日本側の目で鑑賞した、また別の二次会も同じ作品でできないか検討しています。

写真作品は日本へ急いで戻さなくてもよいから、オマケ展で作品がベルリンに長居する可能性があります。
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2015/03/04

絵はがき企画のきっかけ

アートフェア会場にアーティスト名刺を置くにも、コストがかかります。有料テーブルに名刺を並べて整理し案内する。この名刺オプションはドイツ側で一人5千円と概算され、しかし一度も徴収せずじまいでした。人件費がひたすら下がりゆく日本では、びっくり高値で手が出ないと思ったからです。

絵はがき企画は、この問題がヒントになりました。置くだけで有料なら、大きい名刺のようにして売り物とし、ついでに見せ作品も兼ねちゃおうと。一種のマネージメント取り扱い作家ですが、しかしこれを単なる商用絵はがきにはしたくなかったのです。

絵はがき販売事業は、文具店組合にコネがある業者が有力です。製造元は万単位で印刷し、全国の文具店や書店に安く卸し、画家に微々たる著作権料を払うシステムでしょう。図案もまた大衆向けポピュラー系が必須です。言い換えれば、あまり芸術的でない方が歓迎されるという。

こうした普及品とは一線を画して、プレミアム商品と自称する大義のひとつは、もちろん同時代アーティスト集だからです。教科書にのって広く知られた古典とは違うから。これから覚えてもらう、未知の作品コレクション。

最近初めて、印刷濃度が入稿とリニアにならない納品がありました。印刷出版に詳しくないと印刷所とややこしい交渉ができません。こんなところにもプレミアムらしさが顔を出しました。
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2015/03/01

美術のシンメトリーとアシンメトリー

左右対称や回転対称などシンメトリーな表現は、見る側にとって自由感が下がるハンデがあります。彫刻でも、規律や束縛が感じられ、堅い印象になりやすい。

良くも悪くも、人はいびつな歪みに芸術性を感じています。畑でとれた大根や人参が、円柱や円すい形からかけ離れた不定形だったりすると、「まるでアートみたい」とニュースになるのも、たぶんそれでしょう。

日本美術の特徴のひとつに、非対称形があります。たとえば富士山の絵は、火口が画面の中央に来ないよう、左右に片寄せた配置ばかり。前景や点景も、左と右に違うものを置いて。また上下の中心からもずらすのが普通です。左右対称の構図だと、フジヤマ革命か、単なるセンスの悪さか。

もっとも、左右対称の世界的名画はあまり浮かばないから、実は普遍性があるのかも知れません。左と右の使い分けと配分が巧みな作品が、傑作と映りやすいのでしょう。

10円玉の表側の平等院鳳凰堂のように、左右対称はオフィシャルなデザインに見えます。それを美術と銘打つと、アートとデザインのすき間に入って芸術性に疑問符をつけられてしまう心配があります。対称を崩すだけで解決する話ですが。
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