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2017/05/31

ドイツでジクレーアートは売れるとわかっていた

日本からドイツへ作品を送って、売れ方を調べて研究していました。比較的早くわかったことは、売れる作品の第一は写真だという点。日本にくらべてヨーロッパでは写真アートの地位が高いとは想像していましたが、真っ先に売れるのは印画紙の作品だったのです。

写真系が売れ、フォトエフェクト系やCG系のジクレーから売れていくこともわかりました。キャンバス画やパネル作品はあまり動かない、その理由は値段に大差があったからだと、すぐにはわかりませんでしたが。

日本は20年以上不況が続いて感覚が鈍っていますが、世界同時不況が聞こえ始めると、ペーパーアートのみのアートフェアがドイツで伸び始めていました。イギリスがEUオブザーバー脱退を言い出したり、移民難民問題が日本のニュースになるより以前の話です。

新企画も現地に合わせることを考え、日本のペーパーアート作品をファイリングした展示販売も試しました。すると売れたのは、手刷り版画とCGとやはり写真系でした。複写ものが強い。それなら全作品を最初からジクレーにして、もう一度ファイリングすればいけると考えたのです。

日本では美術は特殊化し、ゴージャスやプレミアムが求められます。しかし美術が一般化済みの諸外国では作品の価値は造形イメージであり、ソフト重視です。データ化する意味ではなく、コンテンツ本意の意味です。手で持つと重い必要もなく、ペラ紙の作品から売れていく欧州です。

ドイツで求められる本物志向は、作品の物理的な高級感よりも内容だとわかりました。ただ、ペラ紙だと折れたり長持ちしないから、ハイエンドアートプリンターと超高級厚手用紙にしています。日本だとかなり高額になるタイプです。
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2017/05/28

ジクレー版画展の準備は少なくて長い

募集中のジクレー版画企画では、参加者はジクレーを用意しません。国境を電子で越えドイツの工房で刷り、参加者はあまり労力を使わずに済みます。もちろん梱包や発送は不要。代わりに作品決めなどの準備に時間をかけます。たまたま余っている作品を出しちゃえという、その手の失敗はおさえられます。

ドイツ国内で使うジクレープリンターは日本製です。現地のジクレー工房はどこも「うちの機材は日本製」と宣伝します。カメラと似た状況ですが、最高品質の用紙はドイツ製で品種も多いようで、日本の紙ではないよう。さすがに画材の伝統的先進国だから。

工房の入稿仕様に合わせるため編集はこちらでやり、参加者は撮影するだけです。この分業で、別のメリットが目立ってきました。作品の完成度を上げる調整を加えられます。

編集調整で、一番多いのはサインです。サインはなくても売れますが、ある方がはるかに有利です。作品鑑賞向けに展示する日本と違い、作品購入向けのヨーロッパでは、資産価値の担保でサインは大事になります。最善を尽くすため、絵に収まりのよいサインを用意してもらいます。

次に多いのは、カメラ撮影した絵画のプリント範囲調整です。少しある裁断しろを計算に入れ、一歩前に出た絵を狙います。この時に撮影の救済が必要になります。一部切れているとか、傾いて写っている場合の補正。同時にピクセルのロンダリングも行います。

見るだけの展覧会ならどう作っても済みますが、買う展覧会ではトンデモな絵図であれ、買える範囲に入れる必要があります。会場の外でもアートが多く売られている市街だから、印象に残らないその他大勢作品に見えないように、編集で細工をこらすことがあります。
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2017/05/24

版画で弾幕を張りながら流れをつくる作戦

作品の値段では、最初は一攫千金や一発で元を取ろうと力んだものでした。しかし10号絵画を、ドイツで希望価格3000ユーロ(36万円)とすればいけるか。日本の画廊でよくある価格ですが、ドイツでは新人の100号並みだから、難しいのです。

ヨーロッパは美術の売買が日本より盛んであると同時に、作品が充実した堅い市場でもあるから、価格相場は下がっていて買い手市場ぎみだからです。ローンを組んでまで買う日本と違い、ドイツでは焦って買う必要はそうありません。

相手にすれば、チャンスは何度もあるわけです。代えはいくらでもいる。アートに正価はなく内容しだいで買値はピンキリだからこそ、作品の量も質も豊富な市場では、無名の作者がとれる価格レンジに限度があります。

日独の相場の差どおりに下げると、日本としては貴重な代表作が惜しい。そこで惜しくない作品を選ぶと、ベストでなくなる。別問題として、傑作が手元にないなら出すものがなくなるし。これらの難題をまとめて解決するために、ジクレー版画で作戦を組み直しました。ジクレーなら制約なく何でも出せる。

ジクレー版画で、展覧会の目的も変化します。売る目的が前面に来ます。原画と違い惜しまなくてよいし。売り物のつもりでない作品さえ、商品化の視点で考え直せます。編集や用紙選びで、味付けも変えられるし。

相手の予算内に収まる利点と引き換えに、一発当てるロマンは引っ込むでしょう。夢から現実へ。必然的に手数を打って次につなぐ作戦となります。こうして、リサーチして補強しつつ前進するのが、現実に合うと判断しています。もう日本人画家は珍客ではないから。成果は少数精鋭展につながるようにします。
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2017/05/21

ジクレー版画を制作する展覧会に歩を進めた理由

ジクレーとは原画を撮影し、インク式プリンターで刷った作品です。プリンターはプレス機と同じだから版画です。この方法が昔あれば、喜んだ画家のひとりはムンクかも。彼は後に『叫び』を自分で木版画に彫り直し、複製して売りました。

「ジクレー制作は未経験だし、普通に原画を展示したい」という希望も聞きます。前は普通に原画を展示していましたが、現地で通用しにくい場面を体験しました。原画の値段が通用しなかったのです。原因は内外価格差です。

たとえば音楽CD。一昔前に国内盤は一枚3000円でしたが、それを香港に輸出すると現地価格1800円でした。裏を知った日本のリスナーは香港からの逆輸入盤を買い始め、国産CD販売元が一定期間逆輸入禁止にしたいきさつがありましたね。あの頃のアメリカでは、旧譜のCD盤が1000円程度。

日本のみ高額なのは美術も同様で、日本の画家は外国では高すぎて値下げを余儀なくされます。現に何度も売れた画家は、ぐっと低い価格で出していました。安くなるからもったいなくてA級作を送れず、B級作を送る結果になったりします。最高作が大作や売却済みだと、原画を送れないし。

しかも、美術展の目的にも内外差があります。日本は見物が目的で、ヨーロッパは買い物が目的。現地には世界のアートが集まり、国際市場化しています。売買総量も日本よりはるかに多く、美術がありふれているから価格破壊しています。日本で美術が高いのは、買う人が少ないから。市場が細いから。

ドイツでのジクレー化の読みは当たり、売れる作品数は増えました。売れない理由は値段かも知れないという迷いは消え、作風の嗜好や完成度などに課題を絞り込めています。原画展の場は別ステージで用意しています。
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2017/05/18

出版が紙と電子で拮抗すると不買の空白が生じる?

電子出版の未来が、不透明だそうです。紙の本へ戻る動きがあり、原因は紙と電子でメリットとデメリットが均衡し始めたからでしょう。移行期によくある一時的な乱れにみえますが、電子へ移行しきらない不安もあります。

日本は2013年には、電子出版化が遅れていると言われました。2014年になると、日本は遅れておらずアメリカ並みに普及していると情報も変化し。その2014年に、アメリカで紙の本の復活が起きたという話題がありました。

紙出版から電子に替える最大の変化は、見るのがパソコンやスマホ画面に変わること。が、問題が複雑なのは、著者がセルフ出版できる点です。小説やエッセーなど活字だけの場合、デジタルフォーマットに落とし込んで五千円で済む代行業もあります。当然、企画出版社の出番が減ります。

著者にとって、ボツにされず検閲されず、書きたいことが書けます。ブームの波と無関係に出版できるし絶版もなく。広き門だから内容の玉石混交と引き換えに、表現の自由は謳歌できます。実際には電子出版社が点検して発行停止し、もめたりもしますが。特に盗作とエロで、公序良俗はやはり守られます。

従来三百万円かかった画集の自費出版も、電子なら合理化と自前でコストが下がります。ただし画質がネット並みだから、見る側にお宝への愛着はなく、それならと画質を超HDにすると読者に転用されてしまう恐れも。印刷して友人に配られたり。だから紙の写真集は、プレミア商品で残ることも予想されます。

1982年に出た音楽CDは4300円もして買う人はわずかでしたが、レコードは終わったから、リスナーの多くに音楽ソフトが増えない空白年月が生じました。当時の新人CDは今も再発が少なく。本が紙と電子の半々に分かれると音楽の二の舞で、立ち読みでつなぐ人が増えるでしょう。だからか電子には定額読み放題があります。
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2017/05/14

芸術と商業の対立は外国では意外に起きないもの

初めてお試しで海外出品する参加者へ、作品決めの段階で「こうした方がよいかも知れません」と、私案を述べておくことが増えました。作風の完成度を高めるにはどうするかの方向で、こちらが率先して案を出すこともあります。

要は芸術度を高める方向ですが、それが商業主義とぶつかるような混乱は起きていません。映画にたとえるなら、社会問題を告発するシリアス路線を、ファミリー向け娯楽映画へとまとめ直すようなことは、美術作品では不要だからです。

というのは、美術は一点売れば済むし、映画のように万人向けに仕立てて興行成績を上げたりは不要で、最大公約数をカバーすることは考えません。芸術性を下げた代わりに商業性を高めるという、妥協的な引き換えの発想はいりません。ポピュラリティーを加える量が小さくてよく。

参加希望者の作品は、もっと商業方向へ引っ張っても創造性は損ねないと考えています。言い替えれば、独り合点のマイナス面を持つ作品が、国内に多いということかも知れません。そのマイナス面は、ほとんどの場合で何かの不足です。過剰ではなく不足の方。

不足しやすいのは簡単に言えば見せ場で、音楽で言うサビの盛り上がりが抜けている作品が多いように感じます。これは国内の空気のごとき忖度を受け、目立たない地味な方向へ作品が引っ張られるからではないかと。

「その絵はだめでこっちがよい」と日本で誰かが偉そうに言う場合、必ず主張が薄い作品が推奨されます。濃い作品をすすめるケースは皆無といえるほど。薄味にする説教がまた始まったかと。こうした間違った指導で欠けた何かを、価値観が逆の外国向けに加え直すことが多いのです。
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2017/05/10

日本のおじぎ文化と普段の姿勢

外国人が日本へ来て知った驚きの風習で、三本の指に入るのは「おじぎ」だそうです。ショップでも街中でも仕事の打ち合わせでも、ひんぱんにおじぎされてびっくりという。日本のおじぎに女性型と男性型があるつもりでいたら、前者は接客で後者は礼儀のようです。

女性的な接客型はへりくだりだから、目上へのリスペクトの意味で体を小さく見せます。肩幅を狭め、身体の最大幅も小さくし、前から見た面積を減らします。具体的には手の位置を脚部まで下げることで、腕の付け根を低くして「なで肩」に見せます。

手の位置が高いと正反対の「いかり肩」になるから、そうならないよう手を胴体よりも下に置きます。明治15年発行の『小学女礼式』のさし絵がこれで、手が大腿部にあり、連動して自然な前傾姿勢です。それに対し、男性的な礼儀のおじぎは、手が前ではなく横にあります。

覚えている方も多いでしょうが、小学校の指導でズボン足の側面にある縫い目に中指が来るあれです。つまり普通に起立したまま、体を前傾する。だから「なで肩」ぎみでありながらも、肩幅はそれほど狭まりません。それもあって男性的に見えるわけです。

マンウォッチングの人間行動心理学で解釈すると、低い両手もまた戦わない意思表示でしょう。「どうもどうも」とやるおじぎは、会釈の機能以上に丸腰のしるしだったのでしょう。手裏剣や毒針も手の内にないと示す意味で。

来日した外国人は周囲のおじぎ攻めに、おじぎで応じてしまうそうです。再びおじぎが返る無限ループが困るという。変なのと思いつつ、これが日本だと楽しい人も多いらしく。日本の万物は、おじぎの精神で築かれている気もします。普段から前かがみの人が多いのも、そのせいなのかも。
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2017/05/08

日本語を捨てようとする日本と、学ぼうとする外国

日本生まれの日本人が英語で業務を行うよう、方針変更した国内企業が複数ありました。人、物、金の行き来が自由な、国境なきグローバル時代に対応させる目的でした。英語圏の国が世界制覇する前提の奇策でした。

当面の結果は業績がやはり落ちています。一般に母国語で仕事をすすめれば、きめ細かく伸び伸びできる利点があります。日本語の場合は、言語本来の精度の差で独自のアイデアや技術を過去に得てきたと、再評価もできるでしょう。

日本語には、声色の脚色なしに豊富な言い換えバリエーションで、細かく表現できる容量があります。「わびさび」「もったいない」「微妙」「テキトー」とか。その多彩さを指して、世界の言語の中で最も難しいとの評が根強くあります。ひらがなとカタカナの書き分けもそう。

逆にその微妙さに着目して、日本語を学ぶ外国人が意外に増加中だそうです。新しいきっかけは、日本語を外国の視点で分析したマニュアルだそうです。日本語は欧米語より文法が簡単で、習得は楽だという意外な分析になっていました。

「てにをは」の助詞は重大だとしても、省いても伝わる場合も多い。母音が英語の15~30個に対して5個だから、なまっても意味は変わらない上に、冠詞がない気楽さもあります。「ワタスィー、キタ、ニポン、ハジメーテ」で伝わる。もっと神経質な言語だと思っていたのが盲点。

かつて日本が捨てて外国が拾ったものに、「団体主義」がありました。不況の90年代に、企業が能力主義で個人を対立させた自己責任ブームの頃、欧米企業が終身雇用的なチーム結束を導入し、国際競争力を上げた裏話があります。浮世絵の価値を日本より先に外国が知ったのと、ちょっと似て。
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2017/05/05

新型サイトワークショップはアナログ風味

作家サイト制作ワークショップの準備で、サイトフォーマットを改造中です。従来と基本構造は同じですが、ある部分の遊び要素を拡張した付加価値バージョンといえるものです。

サイト(ホームページ)づくりの心配のひとつは、時代遅れになる早さです。インターネットの正体は電話用の信号線にすぎず、WWWの仕様を国際管理団体が決めて機能しています。サイトづくりのガイドラインも毎年更新され、既存サイトは古びさせられてしまいます。

そうした仕様の流れとは別に、時代感覚の流行もあります。何年か前の大流行は、FLASHプログラムを使った自動プレゼンテーションでした。トップページにビデオが流れたり、何枚かの写真が切り替わるあれ。

それすら、すでにじれったさを読者は感じるようです。勝手に始まる動画を手動で止めるボタンがないと、ストレスがたまるという。ネット閲覧の時間節約志向も高まり、オートアクションがじゃま扱いされやすい現状です。

サイトを徐々に増改築すれば延命できそうに思えますが、現実はコストと手間がかかります。時間がたつと、制作者も内部構造を忘れるし。古びたサイトを当分がまんして、いつか建て替えるのがほとんど。だからネットに、廃屋状態の古サイトや放置ブログが実は山のようにあります。

当作家サイトはできるだけ古びないように、手作り感のあるアナログ風レイアウトです。最新式と言わない、80年代エディトリアルデザインの応用です。
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2017/05/02

車で出かける行楽シーズンの思わぬ危険

大型連休は行楽日和ですが、高速道路のサービスエリア(SA)のトイレで手を洗う時に、一瞬迷うのは水道の蛇口です。レバーを回す手動もあれば、手をかざすだけの自動もあります。気になったのは、レバーを下げると水が出るタイプと、レバーを上げると出るタイプです。

当然ながら水は下へと落ちるので、レバーを下げると水が出るなら、イメージが合致します。逆に上げると出るなら、人間の感覚の道理、人間工学にさからっていてミスを誘います。水を止めようとしたら、逆にジャーと激しく出たりして。鏡を見ながら紙に絵をかく難しさと似ています。

問題はこの手の人間工学無視を、よく売れている車で行っている点です。前にこちらでAT車のペダル踏み間違いが起きる主因を世界で初めて詳細に記し、芸術の本に加えて出版しました。ところが足ペダルとは別に、手でギアを入れ間違う新しい失敗事例が日本で増えています。

事故を起こした車のギアは、レバーを前へ押し込むと車がバックし、レバーを後へ引くと車が前進するという、水道蛇口の逆転と似た設計になっていたのです。ユーザーは不思議体験ミュージアムにいるかのように、レバー操作するたびにクイズ解きをやらされます。錯覚を起こせば病院へ直行。

こうした予想外の作動であっと思わせる遊びは、本来ならアート分野でやるべきなのに、デザイン分野でやって死者が出ています。デザイナーとエンジニアは設計ミスだと認識し、意地になってでも動作方向を感覚に一致させるべきでしょう。あべこべはそろそろ終わりにして。

日本がMT車ばかりだった頃、AT車を売り込む時に安全性の根拠として、ATレバーのポジション配列が全世界で共通だという説得が出回りました。今は共通になっていません。美術の多様化を喜ばないようなカタブツが、機械操作のデザインで多様化に入れ込むのは、困った流れです。
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