FC2ブログ
2019/07/28

美術を作り続ける動機は神のさい配か?

アートを制作する動機は何か。よく聞く俗説は「作る衝動」。それもおそらく正解のひとつで、積み木に触れた子どもが口に入れる時期の後、並べたり積み上げて、未知の形態をつくり出す行動を説明できます。本能の情動みたいなもの。

その時必ずしも「おかあさんの顔をつくろう」とはならず、積み木をかためたり広げたりして、一種の空間デザインを行うことが多いでしょう。近代美術の発展どおりの、具象を崩して抽象化する手順ではなさそうで。

それはよいとして、衝動という短期とは別に、長い年月つくり続けるエネルギー源は何か。それは、自分は特別だという確信かも知れません。自分に他と違う独自性があると気づけば、人類の一代表に選ばれた意識も生じるはず。いわば引っ込みがつかなくなる。音楽ではそうした「選手」の人数は非常に多い。

自分の作品が他と異なり取り替えがきかないなら、自分が手を引けば人類にできたことが小さくなるわけです。人類の遺産に欠けが生じる。たとえわずかでも、既存の範囲から広げる使命を感じる本能でしょう。これは神のさい配というものかも。

しかし作った時に感じよく思える作品は、過去に誰かがやっていたりします。後出しの制作ほど、ゴミに映ってしまう宿命も負うでしょう。ゴッホの時点で、印象派のすき間狙い的な拡張が目立ちます。その最高傑作は結局、子どものかきなぐりみたいになり馬鹿にされた。

企画展示に出る作品にもいえて、見分けがつかないほど似たもの同士は出現せず、互いに拡散しています。しかし国内の鑑賞者の目にはどれも同じに見えるらしく、もっと作品同士の差異を広げたい気は残ります。ちなみに絵をわかるというのは、絵の心がわかることではなく、絵同士の違いがわかること。
関連記事
スポンサーサイト