FC2ブログ
2019/08/23

現代アートの『表現の不自由展』と闇鍋の楽しさ

テレビ漫画『巨人の星』に、闇鍋(やみなべ)パーティーのシーンがありました。捕手の伴宙太が高校時代に開催した宴です。伴は主人公で投手の星飛雄馬の隠し事をしゃべらせようと、暗い部屋なら打ち明けるかも知れないと、一計を案じたのでした。

箸でつかんだ物を一度は口にするルールで、履き物が入っていてギョッとなる場面もあったはず。しかしあの闇鍋、客の野球部員にガラクタを持ってくる指示に現実感がなく、非常に奇妙な場面でした。食品でない物を入れる必然がないし。

本来なら魚や肉や野菜に、穀物類というのが適切でしょう。入っている物を知らせ合わず、暗い部屋で皆がつついて、食べてサプライズが起きる楽しい宴なはず。もし食品でない物を入れてよい前提なら、いったいどうなるかということ。

草履や靴にとどまらず、石や金属類、ボタン電池やサボテンや、汚物、毒物、劇物を入れて、大変な結果になります。起きた結果の大きさを、わーすごいヤッターと喜ぶという。実はこれとよく似たことを実際にやり、ウケているのが現代アートの世界です。

『表現の不自由展』の議論で空転したのは、作品を区別する言葉でした。許せるか許せないかを分ける言い方でコケる。闇鍋にトンデモな物を入れて、皆を驚かせて騒ぎをつくる。それがスイカの実やわらび餅なのか、それとも手榴弾やダイオキシンなのか。国民は言葉をこらしても、二つの関係をうまく区切れずにいます。

わらび餅か手榴弾かは自由の大小ではありません。なのに、行き過ぎた自由はだめという線引きに話が流れ、程度の問題で落としがちです。これは、欧州展示で宗教やヒトラーでの話題づくりを禁じる我々にも切実です。この疑問について、出版以外に何度も何度も論説を書いてきました。
関連記事
スポンサーサイト